大相撲稀勢場所千秋楽。

大相撲稀勢場所、今日、千秋楽を迎えた。
午前中、師匠の田子ノ浦が稀勢の里の引退を伝えた。午後、稀勢の里の引退会見があるとも。

NHKの中継の途中、その30分ほど前に行われた稀勢の里の引退会見の模様が流された。速報として。

こうも語るが・・・

こうも語る。
土俵人生、一片の悔いもない、と。


稀勢の里、綱取りには何度も失敗していた。力はあるのだが、ここぞという一番に弱い。日本人横綱(この言葉もいつの頃からか、日本出身横綱という言葉になっていった)の誕生を日本中すべての国民が待ち望んでいた。
朝青龍以降白鵬、日馬富士、鶴竜、モンゴル勢に席巻されている横綱の座を何としても稀勢の里で、という思いが日本国民のコンセンサスとなっていった。日本国民ばかりじゃなく、日本相撲協会自体も稀勢の里には甘くなった。何とか稀勢の里を横綱に、と。
実は、それを秘かにというか、強力に推し進めていたのは、日本相撲協会理事長の八角であった。
八角、暗黙の了解事項である大関で2場所連続優勝、乃至はそれに準じるという事項を稀勢の里を横綱にするため印象操作を行う。稀勢の里に限っては、ひと場所でも優勝すれば横綱への昇進が叶う、という雰囲気を作った。日本国民は当然のこと、それに乗った。稀勢の里には甘やかしているな、と思う相撲ファンは多くいたが、それが角界の流れであった。
で、19年ぶりに日本出身横綱が誕生した。根っからの稀勢の里ファンである私も、少し甘いなとは思いながらも、喜んだ。


この言葉は今場所前の状態を述べたもの。

「けがとの闘い」についてこの後の稀勢の里、口をつぐんでしまう。、

そして、しきりに涙を拭う。
「けがとの闘い」、苦しかったに違いない。だが、稀勢の里はそれに耐えに耐えてきたんだ、ということが私には伝わる。
思わず知らず、ケンさん・高倉健を思いだした。理不尽な仕打ちに耐えに耐えてきたケンさんが白鞘の刀をひっさげ相手方へ乗りこむ、という高倉健のやくざ映画を。

ストイックな美を。




稀勢の里、逡巡の果てに、勝利に固執する闘いの場に身を置くことを選んだんだ。
しかし、その思いは通じなかった。

会見の最後、稀勢の里は「力士として幸せでした」、と語る。
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今から思えば、横綱昇進後のこの大阪での3月場所だった。
優勝はしたが、計り知れない傷を負った。

今日の正面解説の北の富士さん(相変わらずダンディーだな)、この3月場所の後、大阪から新幹線に乗ったら、あちこちから「おめでとうございます」と声をかけられたそうだ。
北の富士、この何年か前から「稀勢の里を横綱にする会」の会長についていた。まあ、大したものではなく、勝手連であったが。、

稀勢の里の最も思いに残る一番は、一昨年、平成29年1月場所、14日目に初優勝を決めた翌日の白鵬との一番だそうだ。この一番、白鵬に攻められ、攻められたが逆転勝利を納めた一番であった。
なお、白鵬の稀勢の里との思いに残る一番は、2010年11月場所の2日目、当時平幕であった稀勢の里に敗れた一番だという。この一番、白鵬の」64連勝がかかっていた。白鵬、相撲の神様・双葉山の69連勝にひたひたと迫っていた。それを、平幕の稀勢の里が阻止した。

稀勢の里、横綱に上がってからは大けがの影響でこのような成績。歴代横綱のワーストである。

今日の琴奨菊である。
琴奨菊、大関から落ちて何年にもなる。前頭上位で相撲を取っている。
稀勢の里と琴奨菊、恐らく最も対戦が多い取組みではなかったか。
「キセとショウギク」であった。懐かしい。
この後、田子ノ浦部屋の近所の寿司屋へ今場所の1週間ほど前、稀勢の里と琴奨菊、それに豊ノ島の3人が来たという映像が流れた。豊ノ島と琴奨菊は稀勢の里より3つ年上であるが、中学を出た後入門した稀勢の里と同期なんだ。
横綱となった稀勢の里、大関からは落ちたが、幕内に留まる琴奨菊、対して豊ノ島は今は十両へ復帰したが、それ以前は幕下生活を続けてきた男。
稀勢の里に琴奨菊、それに豊ノ島という映像に、涙がジワッと沸いてきた。彼らの結びつきに。

稀勢の里、さしあたりは年寄り荒磯を襲名、親方修行を続ける。

大相撲初場所は続くが、私の「大相撲稀勢場所」は千秋楽となった。