世間は広い。

何日か前に紹介した、高橋義孝著『大相撲のすがた』の中に、尾崎士郎との対談”「八百長」礼讃”がある。
尾崎士郎は、『人生劇場』の尾崎士郎。『人生劇場』の小説も映画も観たことがない、という方には、村田英雄の歌う「やーるーと思えばどこまーでー・・・」の大本の人。村田英雄も知らない、という人は、それでもいいが。そういう人だ。
酒飲みの両先生、どうも一杯やりながらの対談だと思われるが、中に、<最近若い作家がずいぶん出てまいりました。『飼育』を書いた大江健三郎などは、いかがでしょう>、という個所があるので、1948〜9年、今から50年ちょっと前のものであろう。
高橋自身、序の中で、<尾崎士郎先生との対談は、・・・何だか不得要領の観があるが、この不得要領というところに尾崎先生独特の味があるのである>、と書いている。まさに、その通り、勝手気まま、といえば、勝手気まま。だが、味がある。何か所か引いてみる。
<写真判定なんかじゃ面白くない。やっぱり相撲は自分の目で見て本人が納得できたら、それでいいんじゃないでしょうか>、とか、相撲取りの色気について、<亭主がおかみさんに「お前、あそこへいって清水川の首っ玉にかじりついてこい」といってるんです。そういう土俵の上にみる美しさというものは、現実から離れたものですよ>、とか、<八百長だかなんだか知らないけれども、何もとくに八百長として見なくともいいと思うんですよ>、という。
<どうも岡っ引根性で相撲を見ているようでね。そんな根性で相撲を見ていて、どこが楽しいかと思いますね>、ともあり、<相撲なんかてのはね、酒をのみながら見ていていいし、楽しみながら見たらいいんですよ。いつもそんな鹿爪らしい顔をして見るもんじゃないと思いますよ>、ともいう。
<虚無という言葉の中には非常に魅力がありますね。汪兆銘の著書に『東洋虚無思想史』というのがありますが、・・・>、などということも出てき、<何か相撲には「毒」というものがございますね。河豚の毒みたいな。その毒にあてられたら、もう八百長なんか問題でなくなっちゃう。そんなことを論ずるのはおかしくなりますね。ちょうど凄腕の女みたいなものですよ。一度それにひっかかってしまっちゃどうにもならなくなる>、という深い言葉も出てくる。
いうまでもないことだが、尾崎士郎にしろ、高橋義孝にしろ、相撲というものは、本場所の桟敷で、酒でも飲みながら見るものだ、という前提に立っている。楽しむものだ、という前提に。だから、お二人の話、とてもおおらかである。
こういうことも言っている。<テレヴィが普及してきたせいで、そのために非常に水増しの相撲ファンが出てきたんですね。そういう連中は相撲に対する心の準備が何もなくて、近代スポーツをみる目でいきなり相撲を見るもんだから、わけがわからなくなる>、とも言っている。
50年前の羨ましい話といえばそうであるが、本来相撲には、そういう一面は、たしかにあるな、とも思う。しかし、今、こんなことを言えば、それこそ大変であろう。ほとんどの人が、テレビで観ているんだから。半年ほど前のブログに書いた、おそらく粋筋の女性、”名古屋場所の女”のような人を除いては。
相撲好きの人なら、永年NHKで相撲の実況をしていたアナウンサー、杉山邦博という人を知っているに違いない。今年、80歳になるが、今でも相撲記者として、相撲の専門家として、毎場所土俵に詰めている。土俵近くで観ているので、テレビの中継画面にもよく映る。
この杉山さんが2年前、やはり好角家で大宅壮一ノンフィクション賞作家の小林照幸との共著『土俵の真実』(文藝春秋刊)を出した。朝青龍のモンゴルでのサッカー事件や、時津風事件があった後、それらのことが多く出てくるが、その中で、杉山邦博が言っていることは、ただ一点。こう言っている。
<私は、大相撲の魅力は「抑制の美学」にあると思っています>、と書いている。55年以上土俵を見続けてきた杉山、どうも、55年前とその考え変わっていない、と思われる。同じ頃、土俵を見ていた尾崎士郎や高橋義孝のおおらかさとは、対極といえば、対極にある。
しかし、朝青龍問題や、貴乃花の理事当選問題が起こった今は、杉山がいう「抑制の美学」論が、主流であろう。正しい相撲のあり方、ということなんだから、だれもこれには、逆らえない。
朝青龍問題は、相撲協会は、どうも、引きのばしにかかっているが、理事選問題の方は、昨日夜、貴乃花への投票を明かし、今日協会へ辞職届を出す、と言っていた安治川が、一転、それを撤回した。一門の親方衆に説得されて。
一門というより、相撲協会は、慌てたんだろう。ここで辞められたんじゃ、世間の風、どうなるか、と思ったんだろう。実際には、監督官庁の文科省からの「選挙の公正性に疑義が生じる可能性あり」、との圧力に屈したんだろうが。お上が求める正しい相撲のあり方、世間がいう正しい相撲のあり方、ということを考えたんだろう。
それはそれでよかった。これから、キツイことも多かろうが、安治川も助かったし。それはそれでいいし、「抑制の美学」も、もちろん、いいんだが、何かこんなことを言うと、お前なに考えてんだ、と言われるだろうが、正しい相撲のあり方には、今ひとつ、そうだ、と言えないような気持ちもある。世間は、広いんだから。
世間の常識に流されたくないな、という気持ちにも、何となくなってくる。あまりにも、正しい云々が主流になってくると。尾崎士郎ほどの大人には、その足許にも及ばない人間ではあるが。