ひとつ釜の飯。

相撲の八百長論議が喧しい。各メディア、ここ暫くこのことにシャカリキだ。
大相撲というもの、こういうことがあるから面白い。多くの人は、とんでもないことだ、と言って憤っている。あの14人は、推定無罪じゃなく、推定有罪だろう、と皆さん思っている。おそらく、そうだろう、と私も思う。ケイタイを水に落したとか、女房が踏んで壊れたとか、何とも笑っちゃうようなことを言っているのだから。
しかし、仮に、14人を推定有罪にして、さらに、十両と幕内の関取全員のケイタイと預金通帳を調べ、疑わしい力士をあぶり出しても、この問題は終わらない。この問題、その一面は、今回の問題の発端となった、十両と幕下の待遇格差にある。そのことは、1週間前、この問題が明るみに出た日に書いた通りである。改善を要す。
また、1週間前には、大相撲は、単なるスポーツではない、日本特有の文化である、とも書いた。興行形態をとった伝統文化である、とも書いた。去年か一昨年のブログに記した気がするが、私は、仕事を辞めるまでの10数年、年に1度か2度であるが、毎年、国技館の枡席で相撲を観る機会に恵まれた。異空間、という印象を持つ。
枡席で、酒を飲みながらの相撲観戦は、後楽園でビールを飲みながら野球を観るのとは、やはり、違う。歌舞伎やオペラを観るのと同じである。勝ち負けをどうこう、というのとは、まったく異なる。それは、非日常の異空間を楽しむものだ。
しかし、その日本特有の文化の問題は、今日は措く。
八百長に絞る。
八百長問題が発覚、3月の春場所、大阪場所の中止が発表されて以来、部屋に籠っていた白鵬、今日初めて朝稽古に出、インタビューにも応じた。

こういう質問を受けていた。
白鵬に対し、よくも聞いたり、と思う質問だ。女性記者だった。

白鵬、こう答えていた。
この答え、”言わせるな、オレに”、ということだよ。どう考えても。

夜10時からのNHK、”国技”大相撲の危機、なぜ八百長は起きた、疑惑の歴史、改革は可能か、という特番を流した。
相撲興行が確立した江戸時代から、八百長はある。人情相撲だ。

落語の「佐野山」も出てくる。
江戸の大横綱・谷風が、親孝行な力士・佐野山に負けてやる物語だ。谷風の片八百長だ。落語だからオチはあるが、泣かせる。いいねー。

明治に入っても、当然のことながら、八百長はある。

その度ごとに、メディアは、こう言うのだ。
メディア、正義の味方だ。今と同じ。解かっているくせに。
今回の十両下位と幕下がらみの問題は、八百長のごく一部の問題だ。私は、そう思っている。とても悲しい問題だ。哀しい、と言ってもいい。だから、その改善は必要だ。しかし、それで、八百長問題のケリはつかない。
玉の海梅吉著『これが大相撲だ 生きて、みつめて』(昭和59年、潮文社刊)に、”「三バカ」−わが悔恨の一番”、という一節がある。玉の海、その土俵人生で、ただ一度だけ八百長をしたことを記し、悔んでいるものである。そして、玉の海、こう記している。
<土俵の中で、「情」が相撲を取ったら、これはもう相撲ではないし、到底、国技と呼ぶことは出来まい。まして、地位、金銭などがからんだら、これはもう言語道断だ>、と。
しかし、この言葉は、硬骨漢・玉の海だからこそ、吐ける言葉である。さらに、ただ一度とはいえ、八百長をした、という思いがあったればこその言葉である。正論である。玉の海であるからこその。
相撲の解説者、私の知る限りの歴代3人は、神風正一、玉の海梅吉、出羽錦忠雄の3人だ。この3人、いずれも現役時代の最高位が関脇、というのも意義深い。その点、横綱にまで上り詰めた今の北の富士勝昭も悪くはないが、その解説に味が出るには、まだ時間が必要だ。それ以上に、北の富士、玉の海梅吉のような言は吐けまい。


NHKの特番、終わりの方に、初代若乃花・二子山の映像が出てきた。理事長としての二子山が、こう言っている映像が。

その後、残された音声が流された。20年ほど前のものだ。

公益法人の認可を取り消されたらどうこう、と言っている今の状況と同じことを言っている。
今の理事長・放駒も同じ思いであろうが、好漢・放駒、14人以外に八百長はない、ということを言いきったところに、私は、危惧を抱く。あなたも知ってるでしょう、解かっているでしょう、と思うのだ。
板井圭介著『中盆 私が見続けた国技・大相撲の”深奥”』(2000年、小学館刊)は、必ずしも全面的に信用できるものではない。私は、そう思う。しかし、全面的に否定できるものでもない。
板井、現役時代、中盆をやっていた、と記す。八百長の仲介役だ。
<私が現役で相撲を取っていた間、ガチンコで横綱まで昇進したのは大乃国だけだった>、とか、<国民栄誉賞を受けた千代の富士の53連勝の大記録も、ガチンコは19番で、残りの34番は八百長だった>、とか、<対戦相手のなかで、最後までガチンコを通したのは、栃乃若、安芸乃島、両国、花乃国、起利錦、大乃国の6人だけで・・・・・>、といった記述がある。
板井の書いていること、今の十両下位と幕下の力士のことではない。幕内、それも上位の力士のことを記している。横綱も含め。
板井の現役時代でなくとも、近年の千代大海や魁皇のカド番時の取組みを見れば、明らかである。そのこと、放駒も解かっている。それを、言えないだけだ。正直に言えば、私は、それをいけない、と言っているのではない。それも、日本特有の文化だ、と思っている。
放駒も、それを一旦ぶちまけて、今後の対応をすることを願っている。
日本相撲協会に属する力士や親方衆、900人強いるそうだが、皆さん、ひとつ釜の飯を食っているのだから。
正義面したメディアに迎合する必要など、ひとつもない。