主従二人・番外編(菅菰抄)。

晴れ。
世の中には、いろいろ調べることが好きな人がいるものだ。江戸時代の中頃にもいた。
蓑笠庵梨一という人がいた。本名は、高橋高(千)啓、字は、子明。昔の人は、字とか号とか、さまざまな名を持っている。芭蕉よりも丁度70年あとの正徳4年(1714年)の生れ。『おくのほそ道』の注釈書としては、この書に依らないものはない、と言われる『菅菰抄』を著わした。
俳諧を学んだ人だったそうだが、農業指導の専門家だったらしく、40歳までに、各地を公用で訪れる都度、芭蕉の足跡をほぼ実地に踏査した、という。60歳で越前の丸岡に引退し、その後、10年を経てこの『菅菰抄』を完成させた、という。
以上のことごと、岩波文庫『おくのほそ道』に併載されている、『奥細道菅菰抄』の解題に記されていることを引いた。
上記のことごと、蓑笠庵梨一自身が、この書の序で述べていることだが、その精密、詳細な注釈、注釈書の枠を超え、まさに、『おくのほそ道』を読み、理解する為の「事典」と言っていい。
人名、地名はもちろん、故事、古言、縁起、等々、どのような人にも理解できるように、解かりやすい注釈が為されている。
例えば、『おくのほそ道』冒頭の、<月日は百代の過客にして、・・・旅人也>、には、<古文後集、春夜宴桃李園序ニ、・・・、過客ハ旅人ヲ云ナリ>、と。
アレレッ、『菅菰抄』には、「月日は・・・」でなく、「日月は・・・」、となってるぞ。ミスプリか、校正ミスか、と思うが、何十版と版を重ねているこのロングセラー、まさか、今まで気がつかないはずはないだろう。原書のミスだな、きっと。蓑笠庵梨一の思い違いなんだ、きっと。出だしには、稀にこういうことがあるが。それにしても、面白いこと。10年の歳月をかけて、完成させたものなんだが。
それは、それとして、この『菅菰抄』、やはり、凄い著作だ。
和漢の書及び仏典、合計123部の名著に当たっていることが、「引用書目」に記されている。『老子経』、『荘子』、『書経』、以下、和、漢、仏典の凄い書名が並んでいるが、私などには、初めて目にする書名も多い。芭蕉の記述を、また、記述の裏に隠された事象を、理解する為に、それらの書を駆使している。
例えば、芭蕉が、<一家に遊女もねたり萩と月>、の句を詠んだ”一振”での、地の文の一節、<越後の新潟と云所の遊女成し。・・・>、の「遊女」の説明など凄いものだ。
<遊女ハ、・・・>、と書きだされた注釈には、『朝野群載』、『後拾遺和歌集』、『源氏物語』、『万葉集』、『年代広記』、『前太平記』、『源平盛衰記』、『新古今集』、『前漢書』、の9部にわたる和漢古典籍からの引用(さすが、ここでは仏典からの引用はないが)で、「遊女」の注釈を為している。10年の歳月もかかるはずだ。
それが、9部どころか、123にわたる和漢の古典籍と経典に当たっている。おそらく、『おくのほそ道』の注釈を創る為に、これらの書物に当たった、というのではなく、それ以前に、これらの古典籍を読みこんでいたのだろう。一市井人の蓑笠庵梨一、たいへんな学者だ。
しかし、蓑笠庵梨一の凄いところは、その学識の深さではない。彼のこの書を著わすコンセプトにある、と私は思う。
彼は、この書の自序のあとの「凡例」で、こう書いている。
<此書に注する所、ただ故事・古言等の品々のみを挙て、文意句義をくわしく述ざるは、俳聖の祖翁と、未練なる我と、風雅に宵壌のたがひ有るを恐るる故なり。・・・>、と。
この書物では、古い事柄や言葉の注釈はしたが、芭蕉の句についての注釈は、あまりしなかった。何故ならば、俳聖と云われる芭蕉翁と、とるに足らない自分とでは、俳諧の道では、天と地ほどの違いがあるのだから、畏れ多い。こう言っているんだ、蓑笠庵梨一は。
これは、凄い。私が「主従二人」で、副読本とした山本健吉も、参考書とした嵐山光三郎も、また、その他、目を通した何冊かの「細道本」も、すべて芭蕉の句の注釈はしている。それが当たり前だ。畏れ多い、などとは思わないだろう、普通は。
だが、蓑笠庵梨一は、違った。ひたすら、誰にでも理解できる注釈を創り上げた。畏れ多いことには、あまり触れずに。10年かけて。だから、山本や嵐山ばかりでなく、芭蕉のの研究者は、皆この書を参考書としている。私にとっては、先生の先生ということになる。
いつの時代、どの分野でも、市井の学者、と言われる人はいるが、蓑笠庵梨一という人は、傑出した市井の学者であったな。