大相撲、心配だ。

晴れ。
日本相撲協会の秋巡業で、親方衆が、力士の「考課表」をつけているという。
出欠、申し合いの番数、ぶつかり稽古の内容までをチェックしている、という。無断で稽古を休んだり、来ても稽古をしない力士が多いから、とのこと。巡業部副部長の不知火は、「チェックしないでいい時代が来るのを祈りたい。本当はみっともないことだから」、と言っている。こんな記事が、今日の朝日夕刊に出ていた。
相撲が好きな私には、以前から何となく解かっていたことだが、親方衆がこんなことまでやらなくてはならないなんて、大相撲の将来、心配だ。
3日前のブログで触れた大鵬の『わたしの履歴書』の中に、こういうくだりがある。まだ三段目の頃の記述に、<コーチ役の十両、滝見山さんには、最後のぶつかり稽古で散々しごかれた。土俵にたたきつけられ、これでもかこれでもかと引きずりまわされ・・・へとへとに倒れ込むと、口の中に塩を一つかみガバッと入れられる。またぶつかって気が遠くなりかけると、バケツの水や砂を口の中にかまされる>、との記述が。
だが、大鵬は、このような猛稽古があったればこそ、番付も上がっていった、と鬼軍曹・滝見山に感謝している。それが、自ら”自分は、天才ではなく努力の人”、と言う大横綱・大鵬を作り、彼自身、相撲は、”四股、鉄砲、そして、ぶつかり稽古”、という信念に至った大本だったのであろう。
なお、この日経文庫の『私の履歴書』には、不世出の大横綱・双葉山と土俵の鬼・若乃花(初代)の”私の履歴書”も併載されているが、稽古が大事ということに関しては、二人とも同じである。ただ、人間性というか、性格というか、お二人の記述のニュアンスは、異なるが。
双葉山は、抑えた筆致、初代若乃花は、全盛時の取り口同様豪快な筆致であるが。
双葉山は、<相撲の稽古に馬車馬のようにはげんだ>、<人はだれでも生きるうえで目標をもつ。目標あるがために、それへの努力も白熱化する>、と書く。それと共に、<大いに稽古し、大いに修業し、技の面、精神面ともに並行してすすみ、人格的にも自己をきたえる>、とも記しているのが、いかにも人間・双葉山らしい。
年二場所、一場所11日制の時代、69連勝、という驚くべき記録を成した男が双葉山。丸3年以上負けなかった男。もちろん、この連勝記録、その後破る力士はいない。単純には言えないが、今なら150連勝か200連勝に匹敵するのではないか。
稽古とは少し外れるが、双葉山の凄さを感じる一節がある。<私は自分の相手とそれほど力の開きがあったわけではないから・・・>という一節である。
どんな相手にも待ったをしない、受けて立つ、と言われた双葉山。向こうに応じて立つ、向こうが立てば立つ、しかし立った瞬間には、あくまで機先を制している、つまり後手の先である、との記述の中で。
”自分と相手、それほどの差はなかった”、との言葉、3年以上負けなかった男にしてこの言葉、いや、3年以上負けなかった男だからこそ言える言葉、かも知れないな。
それに引きかえ、土俵の鬼・初代若乃花は、記述も豪快。<”二所の荒げいこ”で、兄弟子の力道山には三段目ごろから徹底的にしごかれた>、<巡業にでれば朝2時ごろからけいこが始まった。・・・うっちゃると兄弟子に引っぱたかれた。人の3,4倍もけいこした。3時間ぶっ通しというのも珍しくなかった>、という。
さらに、<一番きついぶつかりげいこも、今なら数分で切り上げるが、力道山の胸を借りて2、30分はやった。けいこが終わった時はもう、”虫の息”だった>、という。
初代若乃花の記述には、”とにかく手加減というものを知らない人だった”、という力道山から可愛がられた様、つまり、脱水状態になり、放心状態で口も聞けないほどでも、「ホラ、来い。ホラ、来い」とけいこをやめない力道山のスネに思いきりかみついた傷が、力道山が死ぬまで消えなかったということ。
また、前頭筆頭で、大横綱・羽黒山との対戦の前、どこから行っても勝てないんだから、と昼に一升酒をペロッと飲んで、土俵に上がり、初めて勝ったこと。後援会の人もいたが、親方の花籠と一晩でお銚子260本をあけたこと。こういういかにも豪快な若乃花らしい話も出てくる。しかし、これらも、猛稽古の日常あってのものであろう。
大鵬にしろ、双葉山にしろ、初代若乃花にしろ、みな猛稽古あってこそ、大横綱となった。本人が、そう言っている。
2年前になるが、時津風部屋で、力士の暴行死事件があった。30分ぐらいぶつかり稽古をし、その後、金属バットで殴って、死に至らしめた、という事件。親方と兄弟子が罪に問われた。たしかに、あれは稽古ではない。いじめであり、暴行である。人を殺した。罪に問われて当然だ。稽古ではないんだから。次元の異なることだ。
だが、ここからが書き方が難しいのだが、敢えて書くと、あの事件以降、日本相撲協会や親方衆、おっかなびっくりであるような感じを受ける。弟子にいかに対していくか、ということに関して。どのような稽古をするか、ということに関して。腰が引けている。たしかに、腰が引けることも、よく解かる。しかし、暴行と稽古とは違う。このこと、解かっていない。
だから、巡業での考課表なんてものが必要になるんだ。稽古をしない力士なんて、力士じゃないのに。自らの首を絞めている人間なのに。夕刊の記事にも、申し合いで目立つのは、把瑠都や鶴竜らの外国勢が中心、とある。9月場所の時だったかこのブログで、三役以上が外国人力士ばかりになってもかまわない、と書いたことがある。でも、日本人力士も頑張らなくっちゃ。相撲なんだから。
猛稽古の末、大横綱となった初代若乃花や大鵬は、歯がゆい以上に嘆くだろう。
以前、世界中にさまざまな格闘技があるが、本当にガチンコの勝負をしたら、一番強いのは相撲だ、という話を聞いたことがある。その稽古が違う、鍛え方が違う、という理由だった。
稽古をしない相撲取り、その行く末、本当に心配だ。相撲大好きな私には。