主従二人(周辺雑録)

小雨。
芭蕉が大垣に着くには、あと数日を要するので、今日は、その周辺のことごとを。
出版不況と言われてから久しい。初めのころは、書籍は苦しいが雑誌はまあ良し、との雑高書低と言われていた。それが今では、雑誌も部数を大きく落としているという。女性誌など、一工夫のオマケをつけたものは部数を伸ばしているが、廃刊に追い込まれる、かっての人気誌も出てきているらしい。
雑誌の世界では、文字離れ以前に、昨今の経済状況の影響、つまり、広告出稿の減少が、その首を絞めていること、と思われるが。
そのような中、中高年対象の「大人の情報誌」とか「生活を楽しむ情報誌」とかいう、はっきり言えば、年寄りを相手とする雑誌は、頑張っているようだ。そのようなジャンルの中では、古株となる小学館の「サライ」と、KKベストセラーズの「一個人」の10月号が、共に俳句の特集を組んでいる。
「サライ」には、金子兜太と小沢昭一、つまり、90と80になるじいさん二人と、佐藤文香という24歳の若い女流俳人(私は、勿論知らないが、読者の99.9パーセントの人も知らないであろう)との鼎談が載っている。このような組み合わせをするところにも、年寄りの”弱み”を握っているこの雑誌の”強み”が見てとれる。さすが「サライ」、20年以上も続けてきたわけだ。
それはともかく、「一個人」は、「奥の細道」を旅する、と銘打った保存版特集。サブに、俳聖・松尾芭蕉の紀行出立320周年、とある。この手の雑誌だから当然だが、写真も多く、楽しめる。
誌中、「旅の中に捨身する」という文を立松和平が書いている。立松は、<(芭蕉は)おそらく快楽の巷に沈んだこともなく、泥酔するほど酒を飲んだ気配もない>、と記しているが、ほんとかな、と私は思う。ま、そんな瑣末なことはともかく、旅の中に捨身した、と立松が言うのは、あらかたそうであろうな、と私も同感する。
「捨身」、という言葉でまず思い浮かべるのは、釈迦のジャータカ物語の捨身邙虎。餓えた虎に食わせるために、自らの身を捨てた釈迦の前世の姿、いつか私も敦煌の洞窟で、その場面を見た。他者への捨身である。
では、芭蕉は、何の為に捨身したのか、立松は、こう言う。<世俗を捨て、文学者本来の芸術を達成するためである>、と。そうか、真の文学者となるために、つまり、自らのために身を捨てたんだ、俳聖・芭蕉は。
釈迦は、仏である。芭蕉は、聖である。いずれも、敬うべき尊いお方である。しかし、今まで、その違いについてまでは、考えもしなかった。ただ、偉い人と思っていただけ。だが、やはり、違うんだ。仏と聖とは。
仏さまは、他者のために身を捨てた。聖といわれる人は、自らのために身を捨てた。当たり前といえば、当たり前のことだが、そんな碌でもないことを、考えた。