主従二人{種の浜)

曇り、時折り小雨。
敦賀に滞在中の芭蕉は、8月16日(新暦9月28日)、天気が回復したので、種の浜(いろのはま、と読むようだ)へ行く。
芭蕉は、その時の模様を、こう書いている。
<・・・ますほの小貝ひろはんと、種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某と云うもの、破籠・小竹筒などこまやかにしたためさせ、・・・追風時のまに吹着ぬ。・・・侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり>、と。
「ますほの小貝」の「ますほ」は、山本健吉によれば、<「ますほ」は、「まそほ」の転化、で赤土。・・・赤みがかったものの名に、・・・>、と記している。辞書を引くと、「真赭」と出ている。
また、蓑笠庵梨一(いつ触れようか、と思いつつ、ややこしくなるので、今まで触れなかったが、この人については、この主従二人のおっかけが一段落した後、触れるつもりでいる。すごい人なので。)は、<ますほの小貝は、・・・ますうと書べし。真蘇枋といふ事にて、貝の色の赤き事、まことの蘇枋の如し、といふこころなり>(『菅菰抄』)、としている。蘇枋も辞書で引くと、マメ科の植物、赤色染料をとる、とある。
いずれにしろ、赤みがかった小さな貝を拾いに行ったんだ。舟に乗って。海上七里、と言っているが、7里はない、3里程度であった、と現場検証重視の嵐山光三郎は述べている。また、天屋何某とは、5日前に曾良が、芭蕉への手紙を託した男。俳号を玄流という回船問屋である。ご馳走や酒をいっぱい積みこんで、種の浜でか、侘びしい日蓮宗の寺でか、酒盛りをしたんだ。いいな。
浜の夕暮れの寂しさ、この上なく心に沁みた、と芭蕉は書いているんだな。そこで詠んだ句がこれ。
     寂しさや須磨にかちたる浜の秋
     浪の間や小貝にまじる萩の塵
初めの句は、昔から秋の寂しさではここに勝るものはない、と言われている須磨の秋よりも、ここ種の浜の秋景色は勝っているな、とでもいうことだろう。勿論、源氏物語が芭蕉の頭にあることは、言うまでもない。
後の句は、打ち寄せる波に打ちあげられた薄紅色の小貝に混じって、萩の花屑が美しく散っていることよ、とでもいう意だろう。
『おくのほそ道』には、上記の二句に続けて、芭蕉は、こう書いている。
<其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す>、と。
福井から付いてきた等栽は、当然のことながら種の浜にも同道してるんだ。そして、芭蕉は、この日のあらましを書きつけさせている。曾良が付いていた時には、曾良の役目だったことを、等栽にやらせている。
福井の条の芭蕉の記述から察すれば、おそらく、等栽のほうが芭蕉よりも年上だと思うが、芭蕉にとっては、やはり従者という意識なのだろう。また、等栽という男もなかなかの男で、そんなことなど意に介さない、心広い人物だった、と思われる、私には。
この等栽が書いた書付けは、今でも芭蕉がいう”侘しき法花寺”(正式な名は、本隆寺と言うそうだが)に残されているらしい。私の副読本である山本健吉の『奥の細道』に、その文章が載っているので、一部を写してみると、
<気比の海のけしきにめで、いろの浜の色に移りて、ますほの小貝とよみ侍しは、・・・下官(やつがれ)、年比思ひ渡りしに、此たび武江芭蕉桃青巡国の序、このはまにまうで侍る。・・・越前ふくゐ洞哉書。・・・元禄二仲秋>、と書いている。なお、芭蕉は、等栽と記しているが、洞哉が正しい名前であるようだ。本人がそう書いているのだから。
それはともかく、洞哉の書付け、途中、西行に触れ、「風雅の人の心をなぐさむ」と芭蕉のことにも触れているのだが、どう考えても、芭蕉が書付けさせたというよりも、洞哉自身の文章だ。
福井から尻っ端折りをして、芭蕉に同道してきたこのジイさん、なかなかどうして、魅力的な男である。
この主従二人のおっかけも、次回はいよいよ大団円、大垣の条となる。
ただ、ひとつ、残念なことがある。今日の記述は、昨日書きたかった。昨日の記述は、一昨日書きたかった。そうすれば、いずれの日も、「320年前の今日」、と書くことができた。福井の条も天竜寺の条もそう。いずれも、一日ずつずれている。
山中の条で、一日うっかり勘違いをしてしまった。14歳の美少年に、芭蕉がフラッとしてしまった日だ。芭蕉の美少年好み、美青年好み、そして、行きがかり上、芭蕉の衆道について書いた日だ。
その間、10日あまり、縮めることもできたのだが、松井のことを思い出したり、国連での鳩山の25パーセント削減演説があったり、オバマの奮闘があったり、秋場所のこともあったり、と私の中では、端折ることができないことごとがあり、一日遅れも仕方なし、となった。まあ、いいか、と。
私は、何事にも、完璧は求めない。私の人生、まあ、いいか、まあ、こんなもの、の連続であったし、これからもそうであろう。ばかぼんのパパが教えてくれる。「それで、いいんだ」、と。
主従二人のおっかけ、残り少なくなり、ややセンチ。余計なことを、私は考えている、のかもしれない。