主従二人(飯塚、笠島、武隈)。

今日の新聞で知ったが、サルコジは、スポーツ担当相の南アフリカ滞在の延期を指示していた、という。フランスは、大臣をW杯に派遣していたんだ。ゴタゴタの治まらないフランス代表チームの収拾にあたれ、と。
W杯サッカー、日本にとっても、国民的関心事ではあるが、フランスにとっては、国民的関心事どころか、国家の危急存亡の秋、と考えているようだ。
それはさておき、ここ何日かW杯にかまけている内に、芭蕉と曽良の主従二人、どんどん歩いている。急いで追いかけよう。
先週末の18日(旧暦5月2日)、二人が飯塚(飯坂温泉)に泊まった、というところまでだった。
その夜の芭蕉の記述がある。この宿、とても酷い宿だったようだ。
土間に莚を敷いただけのあばら屋。灯りもない。囲炉裏の側で臥した。しかし、寝ている上に雨は漏ってくる。雨は強くなり、雷も鳴る。おまけに、蚤や蚊には喰われて眠ることもできない。持病も起こってくる。ほとほと参った、と芭蕉は記す。
芭蕉、やや大袈裟に書いているようだ。なぜなら、曽良の『旅日記』には、この日、夕方から降りだした雨は、夜に入って強くなった、と書いているだけ。雷が鳴ったとか、宿に灯りもなかったとか、寝ている上に雨が漏ってきたとか、というような記述は見られない。蚤や蚊のことも。芭蕉、だいぶ脚色しているようだ。
ようやく日が明けた19日(5月3日)、宿を出るが、前夜の苦しい思いがあって、気分が優れない。まだまだ旅路の先は長いのに、こんな身体の調子じゃこの先おぼつかないな、なんてことも、芭蕉書いている。しかし、続けてこう書いて、気力を取り戻している。原文を引く。
<羇旅辺土の行脚、捨身無情の観念、道路にしなん、是天の命なりと、・・・・・>、と。
もとより辺境の地を行く旅路、俗世を捨てた無常の身でもある。何処で死のうと天命である、と。
おーカッコいい。芭蕉の言葉にしては、ややナマな表現ではあるが。まるで演歌の世界にあるような言葉づかいである。だがしかし、日本人、こういう言葉に弱いんだ。
気力を取り直した芭蕉、縦横入り組んだ道を踏んで伊達の大木戸を越える。この日は、白石で泊まる。
翌20日(旧暦5月4日)、鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島へ入る。
笠島には、王朝期、奥州へ左遷された公家・藤原実方の塚がある。山本健吉によれば、左遷の原因は、一条天皇の御前で能書家の藤原行成と口論をしたからだそうだ。さらに、その二人の口論の原因が興味深い。あの清少納言をめぐる三角関係のもつれだそうだ。面白いな。天皇も含め、王朝期の宮廷の人たちの行動は、とても人間臭くて、面白い。
その実方の塚を探した芭蕉だが、五月雨で道はぬかるんでおり、身体も疲れていたので、塚までは行かず、眺めやって過ぎた、と書いている。しかし、句は詠む。
     笠島はいづこさ月のぬかり道
実方の塚のある笠島は、どの辺りであろうか。行ってみたいが、五月雨の降り続いたこのぬかるみの道では、それも叶わない。心残りではあるが、ということであろう。
その後、武隈の松を見に行く。
芭蕉と曽良が江戸を出立する折り、挙白という男から、「武隈の松みせ申せ遅桜」、という餞別句を贈られていたからだ。この挙白という男、奥州出身の商人らしいが、江戸在住の蕉門のひとり。
武隈の松は、生え際から二つに分かれているそうだ。その武隈の松を見た芭蕉、素晴らしい、見事な松だ、と書いている。その後、次の返しの句を詠んでいる。
     桜より松は二木を三月越
江戸を出る時に、挙白が「武隈の・・・・・遅桜」、という餞別句を贈ってくれた。出立してから3月、武隈に着くと、遅桜はないものの、出立以来待っていた、見事な二つに分かれた二木の松を見ることができた。3月越しに、とでもいう句。
「松」と「待つ」、「二木」と「三月」、さらに、「三」と「見」、というような言葉の洒落がある、と岩波文庫の校注者・萩原恭男は書いている。言葉を懸けて面白がるのも、芭蕉の得意技のひとつだな。
この日はこの後、仙台まで行っている。その宮城野のくだりまで追いつこうと思っていたが、眠くなった。主従二人の追っかけ、今日はここまでとする。
つい先ほど、スロベニア対イングランド戦が終わった。イングランドが、1対0で勝った。ここまで苦戦を強いられていたイングランド、最終戦でやっと1次リーグを突破した。私の好きなルーニーのゴールではなかったが。
それよりも、今日、6月23日は、沖縄慰霊の日である。
昭和20年のこの日、沖縄での組織的な戦いは終わった。雨霰と降る米軍の弾丸に、火焔放射器に、さまざま論争はあるが、おそらく日本軍の強制の下に、20万人以上の人が死んだ。
今上天皇は、この日を、8月6日の広島原爆忌、9日の長崎原爆忌、15日の終戦の日、と共に、日本人が忘れてはならない四つの日だ、と何度も言っておられる。
先帝・昭和天皇の言動を反芻されている今上天皇、内心忸怩たる思いも含み、心中自らに期する思いも含み、今日一日祈りの時を過ごされたのではなかろうか、と拝察する。