主従二人(山中)

曇り。
実は、日にちを間違えていた。迂闊であった。
今日、9月18日には、320年前の同じ日、長い間ともにいた曾良と別れた芭蕉のことを記すつもりであった。
芭蕉と曾良の主従二人が、7月27日(新暦9月10日)山中に着いたことは、前回の主従二人で記したし、8月5日(新暦9月18日)、芭蕉が那谷に行ったことも記した。山中には、8泊しているが、曾良の日記を見ても、その間、薬師堂に行ったり河や橋を見に行ったりはしているのだが、俳諧興行をして歌仙を巻いた、という記録はない。
だから、8月5日(新9月18日)のことしか、頭になかった。昨日、「オッ、新内閣の出足、なかなかいいじゃないか」、と思い、つい、そのことを書きだしたのもまずかった。主従二人のことを、すっかり忘れさせてしまったのだから。
しかし、いかに印象の薄い山中だとはいえ、芭蕉はここで一句詠んでいる。
     山中や菊はたおらぬ湯の匂
であり、続けて、<あるじとする物(者)は、久米之助とて、まだ小童也>、と記している。
山中で泊まった宿は、和泉(泉)屋という温泉宿であるが、その当主・久米之助は、当時まだ14歳の少年だった、と『おくのほそ道』の脚注にある。また、芭蕉は、この少年に「桃妖」という俳号を付けている。自分の俳号のひとつ桃青から「桃」の一字を与えたんだ。
芭蕉のこの句自体は、山本健吉の訳するところによれば、<昔、菊慈童がレキ(麗におおざと)県(れきけん)山中の桃源郷に、大菊から滴り落ちる甘水を汲んで、八百歳の齢を保ったというが、この山中の温泉は、長寿延命の菊を手折るにも及ばぬ、かぐわしい湯の匂いであることよ>、という、なにやらたいそうもったいぶったものである。
浅学の私などには、とんと持ち合わせのない遠い世界であるが、謡曲に『菊慈童』という演目があるそうだ。
さらに、山本は、凝った挨拶の句だが、これでいいかどうかとなると、巧みに過ぎていやみである。『奥の細道』の句としては、劣等の部に属するであろう、と書いている。
では、嵐山光三郎は、この句についてどう言っているのか。嵐山はこう言ってるんだ。
<14歳の和泉屋の主人・久米之助は、水もしたたる美少年であった。芭蕉に衆道ごころがよみがえったのは、「桃妖」の俳号をつけてやったことでわかる。「桃」の字を与えるのは、よほどのことで、それほど久米之助がかわいかったのであろう。その思いが、「山中や・・・」の句に秘められている>、と書いている。
山本とは全く異なる観点、いや、全く別次元のことを言っている。
「衆道」とは、ご存じの方にはご存じのことだろうが、若衆道、男色のことである。たしかに、芭蕉は、美少年、美青年好みであり、彼らに弱い。
嵐山は、<芭蕉の衆道は研究家のあいだでは、一種の禁句となっており、こういった性向が、俳聖芭蕉のイメージをそこなわせるとの配慮がある>(『芭蕉紀行』、と記し、他のところでは、一番の高弟・其角との仲を疑い、最後の旅となった大坂行きの原因を作った、酒堂との衆道関係を匂わせる。
しかし、一番はっきりしているのは、名古屋の美青年俳人・杜国との衆道関係である。
嵐山によれば、杜国は、米の空売りで、伊良湖岬に近い保美というところへ流罪となるが、芭蕉は伊良湖で密会しているばかりか、流人の杜国を連れ、明石、須磨、京都を巡る密やかな旅をも敢行している。もし、ばれたら、芭蕉自身も罪に問われるにもかかわらずだ。確信犯だな。芭蕉の衆道ごころ、胸の痛みを抑えきれなかったのだろう。
だから、山中でも、14歳の美少年・久米之助にフラッとした、ということはあり得るな。
だが、長旅をずっと共に続けてきた曾良とは、このような関係は一切ない。曾良は、若くもないし、美形でもなかったのだろう。
今日は、曾良が病気になった為、別れねばならなかった、芭蕉と曾良のしみじみとした関係について書くつもりだったが、どうも、思いもよらず、全く別次元の関係について、となってしまった。
主従二人のしみじみとした関係については、明日としよう。