主従二人(敦賀)

薄曇り。
等栽を道案内に福井を発った芭蕉は、8月14日(新暦9月26日)、敦賀に着く。
ところで、山中で芭蕉と別れ、先に発った曾良の『旅日記』の8月10日(新暦9月23日)に、こういう一節がある。
<・・・出雲や弥市良へ尋。・・・金子壱両、翁へ可渡之旨申頼、預置也・・・>、と。
出雲屋という宿を尋ねて行って、金子一両を、芭蕉が来たら渡してもらいたい、と預けているんだ。敦賀では、芭蕉は出雲屋に泊まるということが、あらかじめ解っていたんだ、と推測できる。また、翌日、敦賀を発つ時には、天や五郎右衛門という人を尋ね、芭蕉への手紙を預けている。
病を得た身でありながら、芭蕉を案じる曾良の気遣い、心憎いばかりである。
なお、嵐山光三郎は、この金子一両は約10万円にあたる、と記しており、山本健吉は、この一両はどうした金なのか、山中から敦賀までのあいだに、曾良が得た金なのか、と書いているが、私は、なぜ曾良は、金と手紙を別々の人に預けたのかな、と思った。万が一のことを考え、保険を掛けたのかな、と。
それはともかく、芭蕉が敦賀に着いた日は、仲秋の名月の前夜、待宵で、その夜の月はことに晴れていた。敦賀での月見を楽しみにしていた芭蕉は、「明日もいい天気だろうか」、と宿の主人に聞くと、「越路のことだから、明日のことは、何とも言えないねえ」、という返事。
主人に勧められた酒を呑んだ後、けひ(気比)の明神へ夜参りに行く。気比明神は、仲哀天皇の御陵、その来歴、言伝えなどを述べた後、次の句を詠む。
     月清し遊行のもてる砂の上
句の意は、なんと清々しい月であろう。遊行上人が運んでこられた白砂の上に美しく輝いている、とでもいうもの。
翌15日(9月27日)は、宿の主人が「何とも言えないねえ」、と言った通り、雨が降った。そこで、この句を詠む。
     名月や北国日和定なき
今宵こそ十五夜の名月を、と楽しみにしていたのだが、宿の主人の言った通り、昨夜とは打って変わり雨となってしまった。本当に北国の天気は解らないものだなあ、といったものだろう。
なるほど、雨が降ったら降ったで、名月の句はできるんだ。月はなくとも、月の句は詠めるんだ。