主従二人(羽黒)。

晴れ。
芭蕉と曾良の主従二人には、ホントに長いご無沙汰だった。最上川を下り、羽黒山に入るころから。
この間、世の中、身の回りにいろんなことごとがあったこともあるが、なにしろ、私の参考書にしている嵐山光三郎が,「出羽三山こそが、芭蕉にとっても曾良にとっても『細道』最大の目的地であった」(『芭蕉紀行』)なんてことを書いているので、そうか、気合を入れなきゃいけない所なんだな、なんて思ったのがいけなかった。
気合いが入るのを待っていても何時になるか判らないので、出羽三山での芭蕉主従を、気楽に追っかけてみよう。
『おくのほそ道』には、
六月三日、羽黒山に登る。
四日、本坊にをゐて俳諧興行。
五日、権現に詣。
八日、月山にのぼる。
とまことに簡単に記されている。もっとも、本文はもう少し書かれているのだが、それもさして多くない。
例えば、3日の芭蕉の記述は、<六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐慇の情こまやかにあるじせらる。>というものだし、4日の記述は、上記の「俳諧興行」の字句に続けて、「有難や雪をかほらす南谷」の句一行のみ、である。
6月3日(新暦7月19日)羽黒山に登り(羽黒山は霊山ではあるが、標高400メートルちょっとしかない)、偉いお坊さんの会覚阿闍梨にお目にかかり、南谷の別院に泊めていただき、こまやかなもてなしを受けた、ということであろう。
翌4日(新暦7月20日)には、俳諧興行を行っている。おそらくこの興行は、芭蕉がこの奥の旅に出る時から考えていたことではないか、と思う。出羽三山の地で俳諧興行を行いたい、歌仙を巻きたい、と。また、羽黒の地でも、芭蕉が来ることを今や遅し、と待ちかまえていたのではなかろうか。大宗匠が来たら歌仙を巻きたいものだ、と。
曾良は、『俳諧書留』で、この時の歌仙を、「羽黒山本坊におゐて興行 元禄二、六月四日」として書き留めている。芭蕉の「有難や雪をかほらす風の音   翁」を発句とする36句を。この時の歌仙は、8人による八吟歌仙、芭蕉と曾良以外の人の名前だけ記しておこう。露丸、釣雪、珠妙、梨水、円入、そして、大阿闍梨の会覚である。いずれも、おそらく羽黒近辺の俳諧自慢の面々であろう。
5日(7月21日)は羽黒権現に詣でているが、曾良の『旅日記』によれば、この日も「俳」とあり、歌仙を詠み続けていたようだ。
芭蕉は、8日に<雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里>で月山に登った、と書いているのだが、実際には、6日に月山に登っているようだ。曾良の『旅日記』にそう書いてあるので。芭蕉はおおまかなところのある人のようで、日付けなど事実と異なるところが多くあるが、その点、曾良は非常に几帳面な人で、師・芭蕉の動静をこと細かく『旅日記』の中に残している。
この日、羽黒山から月山まで、芭蕉は8里(32キロメートル)、曾良は7合目までで7里と記しているが、(今、Google Earth で見てみると、直線距離で約20キロ)、いずれにしろ、たいへんな距離だ。曾良によれば、この日の天気は良かったようだが、この主従、たいへんな健脚ぶりである。しかも、雪や氷を踏みしめながらの登り、日が落ち、月が出てから頂上に着いた、とある。月山は、標高1984メートルの高山でもある。月山をスキーで降りたことしかない私など想像の外だ。
<笹を舗、篠を枕として、臥て明るを待。>と芭蕉は書いているが、曾良によれば、実際には、「角兵衛小ヤ」という山小屋に泊まったようだ。
7日の朝、雲が切れた後、湯殿山(標高1500メートル)へ下り、その日のうちに羽黒山の南谷へ戻っている。
8日、9日も南谷に滞在しているが、実は、この9日に、5日前の4日に巻き始めた八吟歌仙が終わっている。以前、大石田での四吟歌仙の折りの2日に渉る歌仙に、山本健吉も嵐山光三郎もさして気にも留めていない、と記したが、2日なんて不思議でもなんでもないんだ。羽黒山では、足かけ6日もかけているのだから。途中、泊まりがけで出かけたりしてるんだからな。
なお、この間、芭蕉は、<阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書>と記す。それが・・・
     涼しさやほの三か月の羽黒山
     雲の峰幾つ崩て月の山
     語られぬ湯殿にぬらす袂かな
     湯殿山銭ふむ道の泪かな     曾良
就中、月山を詠んだ「雲の峰〜〜〜月の山」の句。私の副読本で山本健吉は、<月光に照らしだされて眼前にはっきりと現われ出た雄大な山容である。そこから芭蕉は、昼間に見た雲の峰のイメージを呼び起こしているのだ。「月の山」を目の前にしているけしきと取らなければ、この句は死んでしまう。>と記す。
また、出羽三山について、参考書の嵐山は、<出羽三山信仰は擬死体験である。・・・芭蕉は出羽三山に、一度死ぬためにやってきた。いままでつみあげてきた俳諧の道をすべて捨て去る、という覚悟があった。>とも記す。出羽三山での芭蕉に強い思いを持ち、自身出羽三山での芭蕉の足跡を、自らの足でなぞってきた嵐山らしい感慨だな。