主従二人(那谷)。

晴れ。
7月27日(新暦9月10日)、主従二人は、小松を発ち、山中へ行く。
しかし、『おくのほそ道』には、山中の条の前に、那谷の条が記されている。それ故、ここでも、芭蕉の記述に倣う。
実は、芭蕉と曾良の二人は、山中には8月5日(新暦9月18日)まで9日間滞在するのだが、芭蕉は、この最後の日、8月5日に那谷に行っている。金沢以来ずっと一緒の北枝を伴って。おや、曾良は、どうした。
曾良は、病気になってしまい、この日、5日、先に伊勢長島へ帰ってしまったんだ。この8月5日は、芭蕉にとって忘れられない日となる。江戸、深川を出立して以来ずっと傍にいた曾良が、いなくなってしまったのだから。これについては、また後ほど山中のところで触れる。
ところで、那谷は、花山法王が、西国三十三カ所の巡礼を遂げさせられた後、ここに大慈大悲の像を安置された観音堂があり、ありがたいところである、と芭蕉は書いている。そこで、次の句を詠む。
     石山の石より白し秋の風
文庫本の脚注などによれば、奇岩の重なるこの那谷寺の石は、近江の石山よりもさらに白く、折から白風と呼ばれる秋風が吹き渡っている様も、いっそう白く感じられる、とでもいう意のようだ。
山本健吉は、こう書いている。
<芭蕉が秋風を白いと感じたのは、気持ちの底に、長い道中を連立ってきた曾良と別れたという悲しみがあって、索漠とした思いを深くしていたのであろう>、と。
そうであろう。たしかに、そうである。
この、芭蕉、そして、曾良、二人それぞれの悲しみの気持ちについては、次回の主従二人、山中の条で記そう。