主従二人(金沢)。

晴れ。
芭蕉と曾良の主従二人は、7月15日(新暦8月29日)、金沢に入る。
嵐山光三郎によれば、当初の予定より1カ月半も遅れた金沢入り、となったという。また、山本健吉によれば、二人が酒田を発ち、越後路に踏み出した時の芭蕉の記述、<遥々のおもひ胸をいたしめて、加賀の府まで百三十里と聞>、と書いているとおり、松島・象潟を見た後は、一路加賀の府・金沢が目標となっていた、という。
加賀百万石の金沢。大都会。主従二人は、この日から7月23日(新暦9月6日)まで、9日間この地、金沢に滞在する。
その為かどうか、『おくのほそ道』での金沢の芭蕉の地の文は、僅か5行しかないのだが、山本も嵐山も共に、この金沢でやけに力が入っている。泉鏡花、室生犀星、島田清次郎、それに、いつか、五木寛之も休筆宣言をした後住んだのは、たしか、金沢だったような気もするが、文学どころであることにもよるのかもしれないが。
嵐山は、金沢の町をめったやたら歩きまわっている。寺、犀星の道、犀川の堤、幾つかの芭蕉の句碑、にし茶屋街(西の郭)、料亭、銭湯、市場、食堂等々、この時には、ポケットウイスキーは持たなかったろうが、文庫本の『おくのほそ道』は、おそらく手にして、それこそあちこち歩きまわっている。思いいれが強かったんだな。その訳は、ある。
山本は、こう書く。<金沢には一笑を中心にして、焦門のグループが、まだ見ぬ師の来訪を首を長くして待っていた。あまり芭蕉に心を寄せる者のいないみちのくや越路の長旅の後に、そのような加賀連衆にあうことは、芭蕉にとってもこの旅の楽しみの一つであった>、と。
ここに、一笑という男が出てくる。芭蕉は、金沢で一笑に会うことを楽しみにしていたんだ。一笑は、金沢で茶葉屋を営んでいた男だそうだが、実は、前年の12月6日に、36歳で没していた。春、3月に奥への旅に出た芭蕉は、金沢へ着くまでそのことを知らなかった、という。
芭蕉は、『おくのほそ道』金沢の条で、地の文5行の後、句を3句記している。いずれも、根の部分で一笑を追悼する句である。嵐山が、町中をあちこち歩きまわっているのも、おそらく、心の底にこの一笑のことがあるからだと、考えられる。
どうも、一笑を悼む3句については、ひとことで言えない。それ故、それについては、明日とする。
なお、この芭蕉と曾良の旅の追っかけ、今まで、タイトルは単に「主従二人」としてきたが、今日のようにそれが何日か続くと解りづらいので、その後ろにカッコをつけ、場所を入れることにした。
実際は追っかけ記である、6/29の「雨あがる」、6/30の「教科書プラス」、7/13の「タニマチ」などは、そのままとしたが。