主従二人(山中、続き)

曇り、晴れ。
元禄2年(1689年)8月5日(新暦9月18日)、つまり、320年前の昨日、芭蕉は、山中を発ち、小松へ戻る。金沢以来付き添っている北枝に伴われ、途中那谷に寄りながら、小松の生駒万子なる男に会う為に。
本来ならば、芭蕉にとって忘れられないこの日、8月5日(新暦9月18日)のこと、芭蕉と曾良の別れについては、その日に、つまり、昨日書くつもりであった。それが、迂闊にも1日、日付けを間違えてしまい、今日になった。悔やんでも仕方がない。
過ぎた時は、取り戻せない。私の人生、このようなことは、幾らもあった。いや、人生とは、そのようなことの連続なのかもしれない。どのようなお方にとってもそうであろう。ま、それはともかく、
芭蕉の心は、重く、寂しさに包まれていただろう。江戸を出て以来4カ月以上、ずっと一緒だった曾良がいない旅。北枝は付いているが、芭蕉にとっては、曾良と北枝では、同じ弟子とはいっても全く違う。寂しいなあ、と思い思い歩いていたことだろう。
この条、文庫本でも5〜6行なので、『おくのほそ道』の芭蕉の記述を、そのまま写してみよう。
<曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、
     行き行きてたふれ伏とも萩の原     曾良
と書置たり。行くものの悲しみ、残もののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
     今日よりや書付消さん笠の露                                  >
と書いている。
曾良の句は、私は病気になった為、師と別れて先に旅立っていくのだが、この先どこで行き倒れたとしても、萩咲く野であれば、死んでも本望であります、とでもいう意であろう。病を得、師に先立って行かねばならない曾良の悲しみやつらさが、とてもよく表れている句だと思う。
山本健吉によれば、この句の初案の形は、
     跡あらむたふれ臥とも花野原
であったが、それを、
     いづくにかたふれ伏共萩の原
に改めたが、それを、さらに芭蕉が、「行き行きて・・・」と手を加えたのであろう、と書いている。続けて、<初案、再案と比較してみると、「行き行きて」に、一人先立って行く悲しみが最も出ていよう>、と記している。
そうだなあ、忠実で完璧な補佐役の曾良、この先、師の世話をできなくなった悲しさばかりでなく、無念さ、申し訳なさ、といった感情まででている、と感じる。
それに対する「今日よりや・・・」の芭蕉の句、これもいい句だな。句の意味は、芭蕉の詠んでいる通り、今日からは一人になってしまうのだ。旅に出る時に笠の裏に書いた「同行二人」の文字も、その笠に置いた露で消してしまおう。曾良がいない旅、本当に寂しいことだなあ、ということだろう。
同行ニ人は、通常は、お大師さま・弘法大師との同行二人であるが、芭蕉にとっては、お大師さまよりも曾良との同行ニ人。芭蕉にとっての曾良は、単なる弟子というよりも、かけがえのない道連れだったんだ。芭蕉の悲しみ、寂しさが、正直に表わされている。
この「今日よりや・・・」の句の前の地の文にも、それは見てとれる。
行く者の悲しみ、残る者の無念さ、これまで何時もずっと一緒だった二羽の鳧が、別れ別れになってしまって、雲間に迷うようなものだ、ああ、という地の文の芭蕉の記述、芭蕉の胸の内を察するにあまりある。曾良とは、そういう関係だったんだ。
多くの弟子との師弟関係、さまざまなパトロンとのタニマチ関係、昨日触れたような衆道関係、さまざまな関係を芭蕉は持っているが、曾良とは、それらとはまた別の、いわば信頼関係とでもいったものがあったのであろう。お互いに。