日本語を話す人。

晴れ。
日本人ではないのに日本語を話す人は、他の言葉に比べて多くはないが、あちこちの国にいる。
日本に住んでいたり、何らかのことで日本に興味を持ったり、日本の文化を研究したり、仕事に有利であるからという理由で、とさまざまである。しかし、そう多くの人ではない。
が、ある年代の人たちが、それも、ごく普通の人たちが日本語を話す所がある。1945年8月まで日本が統治していた国、地域である。
40年近い昔になるが、サイパンで我々と同じような日本語を話す人を知った時には、初めビックリした。まだ観光地化される前で、以前は製糖工場であったという雑草生い茂る中に、破壊された日本軍の戦車の残骸がまだ放置されていた。日本人の顔つきとはまったく異なる濃い褐色でいかつい面貌のチャモロの人たちが、日本人と同じ日本語を話した。
考えれば当たり前のこと、サイパンを含めマリアナ諸島やミクロネシア地域は、第一次世界大戦の後、1920年以降第二次世界大戦で日本が負けるまで、日本の委任統治領であり、日本語での教育が行われていたのだから。
このサイパンよりももっと長く、日本語での教育が行われた地域がある。日本の植民地であり、強力な(創氏改名も含め)同化政策がとられた(実態は、差別ある同化政策であるが)、朝鮮半島と台湾である。
今日、東中野の小さな劇場・ポレポレで、酒井充子監督による映画・『台湾人生』を観た。
台湾は、1895年(明治28年)、日清戦争後の下関条約で、清国から日本へ割譲され、1945年までの半世紀、日本の植民地となり、日本語による教育が行われた。それ以前に、台湾のひとたちは、差別はあるが日本人となった。
酒井充子の『台湾人生』には、大正末年から昭和3年に生まれた5人の台湾の人が出てくる。
一人は、7つか8つのころから働いていて、今も茶摘みをして働いているおばあさん。彼女も、たどたどしいが日本人の所で覚えたという日本語で話す。「ずっと一日も休まず働いてきた。仕事をしないと病気になる」と。
あとの4人は、学校教育を受けた日本語を話す。共通するのは、日本への思いだ。その思いが、「日本は我々を捨てた」という思いにつながる。彼らは、台湾人なんだ。国共内戦に敗れ台湾へ来た、蒋介石の国民党への反感も持っている。
二二八事件というのがある。1947年2月28日の国民党軍の台湾人1人の殺害に端を発し、その抗議への大弾圧事件、1949年から1987年まで38年に及ぶ世界最長の戒厳令が布かれていた台湾では、長くタブーとなっていたそうだが、この二二八事件と呼ばれるものでは、28000人の台湾人が殺されたという。中の一人は、この時、弟を殺されている。
日本への思いが強い台湾人なんだ。
中の一人は、勉強はできたが家が貧しく夜間中学へ進む。だが、それも続かない。その時、日本人の教師が5円(その当時は大金だったという)を握らせ彼を励ます。彼は、今、毎年、千葉県のその日本人教師の墓にお参りにくる。
中の一人は、台湾原住民の出身で大学教育も受け、台湾の国会議員にもなった人だが、台湾原住民の誇りを語り、孫娘が日本語を学び、日本語を話すことを喜ぶ。
中の一人(この人は女性)は、こう言う。「私は女学校では、学年で2番の成績であったが、日本人なら与えられる賞を貰えなかった。でも、そんなことはいい、私は日本人より日本人だ」と言う。そして、こう言う。「もし、私が男なら、特攻隊に志願した。お国の為に、天皇陛下の為に、命を捧げた」と。続けてこう言うんだ。「小泉はエライ。何故もっと日本人はみんな靖国へ行かないんだ。それほど、支那が怖いのか」と。
1年ちょっと前の李纓によるドキュメンタリー映画・『靖国』の一場面を思い出した。驚くべき美形というか、凄絶なる美貌というか、ともかく、すさまじく整った顔貌の女性(後で、この女性が、高金素梅という名の原住民出身の台湾の国会議員であることを知ったが)が、靖国神社の担当者に、舌鋒鋭く迫っている場面を。彼女はこう言っていた。「台湾人を靖国の合祀から外せ。台湾人の魂を返せ」と。
高金素梅は、『靖国』の中で、「我々は日本人ではない」と言って靖国神社に迫る。しかし、『台湾人生』の80代の女性は、「私は、日本人よりも日本人だ」と言う。さらに、「どうして、日本人はもっと靖国へ行かないんだ」と言う。世代、受けた教育の違いだろう。両者、共に台湾人なんだもの。
『台湾人生』の80代の女性は、最後にこう言うんだ。「悔しさと懐かしさ、解けない数学のようなものだ」と。考えさせられる言葉だ。日本は、まだ「落とし前」をつけていないんじゃないか。旧植民地の人々に対して。
先ほどのニュースで知ったが、今日、金大中が死んだ。彼もまた、日本語を話す人だったな。