鬼哭の島。

今年、太平洋戦争の発端、真珠湾攻撃から70年、また、その発端ともいえる満洲事変勃発から80年、という節目の年。
江成常夫は、40年近くに渉り、昭和の戦争とその負の遺産を、写真で表現し続けてきた。

東京都写真美術館で、江成常夫写真展『昭和史のかたち』、観る。
江成常夫の代表作「鬼哭の島」、「偽満洲国」、「シャオハイの満洲」、それに、未発表の最新作を含む「ヒロシマ」、「ナガサキ」を加えた112点で構成されている。
特に、展示の主体は、「鬼哭の島」。
”鬼哭”とは、”浮かばれない亡魂が恨めしさに泣く”、という意。
江成常夫、太平洋戦争中の激戦の島々を写し取っている。

これらの島々。何とか解かるのでは。
囲みがあるのが、江成が訪れた島。
江成常夫の写真集『鬼哭の島』(2011年、朝日新聞出版刊)の巻末から複写した。
江成常夫、同書の「まえがき」で、こう書いている。
<三年八ヵ月にわたった太平洋戦争で、戦没した日本人将兵は、約二百四十万人(厚生労働省)。民間人の犠牲者を含めると三百十万人に及んでいる。・・・・・いまも百万に余る万骨が南の島で泣いている。「玉砕」という美名で装われた戦歴の島々は、まぎれもなく成仏できない死者たちの「鬼哭の島」である>、と。
また、あとがきにかえた「声なき伝言」の中では、こうも記す。
<歴史が明日への「教師」なら、最も身近な昭和の過ちを、真摯に受け止め本気になって問い糺すことだろう。深い傷を負ったままの昭和は、百年の歴史に向かって時を刻んでいる>、とも。
江成常夫の写真集『鬼哭の島』から、江成の撮影した激戦の島々の写真を引く。

真珠湾に沈んでいる戦艦アリゾナから、今も浮かび上がる油。撮影は、2005年5月。

日本軍の戦死者2万1千人。内、1万6千人は、補給路を断たれての餓死と病死、と言われるガダルカナル島。故に、”餓島”、と呼ばれる。
キャプションには、<血染めの火焔樹が、その地を埋めていた>、とある。2007年1月の撮。

ラバウル(パプアニューギニア)。
左は、朽ち果てた陸軍九七爆撃機。右は、旧東飛行場に近い椰子林に放置された九七爆撃機の残骸。2009年3月撮。

トラック島。
<大発(大発動機艇)の残骸が戦時を語りかけ、人骨の山に思えたりする>、とキャプションにある。2008年3月撮。

戦死者1万人のペリリュー島。
左の写真に、江成常夫、こういうキャプションをつけている。<戦中の国民は、出征兵士を歓呼の声で送った。が、戦後の国民は、敗戦兵士の存在をなかったかのように忘れてきた>、と。
右は、同島の「戦争博物館」に展示されている弾が貫通した鉄兜と水筒。<死闘の二字が浮かんだ>、と江成は、記す。
撮影は、共に2004年10月。

日本軍の戦没者、約8万人、米軍の戦死者3500人、のレイテ島。
<レイテ島最大の激戦地リモン峠。ここでも奮戦1万余の戦死者を出した。師団の慰霊碑と礼拝所が祀られている>、と江成記す。2005年5月撮。

これもレイテ島。
<線香を手向け英霊にレンズを向けた。汗がピントグラスを濡らし、頭骨が泣いていた>、江成、こう記す。
ここまででもお解かりのように、江成の写真に添えられた江成自身の記述、とても感情過多、情緒的である、とも感じる。しかし、これを、あまりに情緒的過ぎる、と言うことはできない。そう思ってはいけない。
1936年生まれの江成常夫、悪性腫瘍と戦いながら、永年に渉り、慰霊の撮影を続けている。昭和という時代を問い続けている。カメラを通し。
戦争の昭和を忘れるな、国のために死んでいった人たちを忘れるな、と。『一枚のハガキ』の新藤兼人と、その思い、同じである。

リモン峠に近いサントニーヨ村で見つかった日本軍の医具。
<レイテ島での戦い、太平洋の戦場でも最悪の作戦との汚名がある>、と江成は記し、こうも書く。<飢えと病に耐えきれず、銃口を口にくわえ、引き金を引く兵士もいた>、と。

ルソン島。
ルソン戦での日本軍の戦死者は、約20万5千5百人。米軍の戦死者は、8310人、とある。
戦後、いわゆるBC級戦犯が、モンテンルパの刑務所に収容された。多くの人が戦犯として処刑された。この写真は、旧戦犯刑務所に隣接した「平和祈念公園」の一隅に掲示されている、戦犯として処刑された日本軍将兵の遺影。2005年11月撮。

サイパン島。
サイパンでは、海岸線での白兵戦に始まり、戦闘は全島に及んだ。サイパン戦での死者、日本側は、民間人1万人を含め約5万1千人。米軍は、約3500人。
写真は、米軍に追われた邦人や敗残兵が逃げこんだカラベラ洞窟。2004年12月撮。
40年ほど前、サイパンとグァムへ行った。まだ、さほど観光地化される前であった。サイパンのあちこちには、破壊された日本軍の戦車や砲台が残っていた。米軍に追われ、多くの民間人が飛びおりたバンザイクリフにも行った。当時、日本は、既に経済の時代に突入していた。その時、昭和の戦争のこと、少しは学んだ。
サイパンもグァムも、遊びであった。その1〜2年後、「恥ずかしながら」と言って、横井昭一さんがグァムのジャングルから出てきたのには、驚いた。横井さんが隠れていたすぐそば辺りを、知りあった若い連中と車で走っていたのだから。戦争、終わってないんだな、と改めて思った。
しかし、江成常夫は、そのことをずっと追い続けている。今に至るも、ずっと。

硫黄島。
硫黄島も、激戦の地だ。日本軍守備隊2万3千人が玉砕した。米軍も、太平洋戦争最大の死傷者を出した。米軍の死傷者、2万8千余、内、死者6800人余。
摺鉢山の頂上に星条旗を立てる米軍兵士の写真、アメリカの戦勝の象徴として、何かというと出てくる。これは、その写真を模して、島北部の岩盤に刻まれた「星条旗を掲げる兵士の像」。2006年6月撮。

沖縄。
沖縄については、何を言おうか、言葉もない。日本唯一の地上戦の地。
<沖縄戦での日本人の戦没者は、18万8136人(沖縄県福祉・援護課)。そのうち民間人の犠牲者は、正規軍人を上回る9万4000人。米軍戦死者は1万2520人にのぼった>、とある。
上の写真は、糸満市喜屋武の一家が没した伊禮家、猛さんの勲記。2005年2月撮。
国に殉じた人、いわば、国に殺された人に対し、国は、紙一枚で報いる。天皇の璽を用い。
<喜屋武地区には、一家が全滅した屋敷が目立ち、時間が止まったままの沖縄戦を見る思いがする>、と江成常夫は、記している。
沖縄戦ばかりじゃない。沖縄、誰が何と言おうと、今も、捨石。
長くなった。最後にトラック島に従軍した金子兜太の句を載せる。
     魚雷の丸胴蜥蜴這いまわりて去りぬ     金子兜太
     水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る     金子兜太
いずれの島も、”鬼哭の島”だ。