オホーツクふらふら行(25) 稚内港再び。
どういうことなのか昨日、「稚内港」とタイトルを打ち、「ドームから」と打ったところでニッチモサッチモいかなくなった。
字も打てない、写真も取りこめない。あちこちどうこうしても、まったく機能しない。ブログのタイトルと本文5文字のみではみっともないので、削除しようとしたが、それもできない。
ひょっとしてと思ったのは、「はてな」の使用料が切れたのではということ。
11年前から「はてな」のシステムを使っている。アメバのように派手でなく、アフィリエイトも入れなくてもよく、地味だがシックな感じであったから。
20年近く前、京都の若者が始めた「はてな」、どんどん利用者を延ばしマザーズ上場企業となった。この私の雑ブログでも私が直接存じあげない方々がご覧いただいている模様。それはそれとして。
調べてみたら、私の「はてな」への残額が少ないことに気がついた。年に一度、1万円を振りこんでいる。それでほぼ1年間の使用料が賄える。が、1年を少し越えてしまったらしい。それなら知らせてくれればいいのに、と思うが、来たメールを私が見落としていたのかもしれない。
いずれにしろ、今日振りこんだら「はてな」のシステム利用、可能となっていた。すべてデジタルな世界での作業であろうが、現金なものだ。
で、昨日記そうと思っていたことを、今日改めて記す。
ドームから港の方へゆっくり歩く。ストックを使いゆっくりと。
私は、港が好きなんだ。
ここまで来た。北防波堤から600メートルも。
道は滑る。スキーのストックが役立つ。一歩一歩ストックを使って。この600メートル、20分以上25分ぐらいかかったかもしれない。
離島へのフェリー乗り場まで行くつもりである。
あと350メートル。
実は、47、8年前の4月末から5月初めの連休の時、私は稚内から利尻島へ渡った。
連休前日、仕事が終わった後、上野から夜行に乗った。故郷への土産であろう品物を多く持った人たちがいっぱい乗っていた。翌朝青森に着いた。青森から青函連絡船に乗り、昼ごろ函館に着いた。函館からすぐ汽車に乗り、夜、札幌に着いた。
札幌で稚内行きの夜行に乗り換えた。その車内にも、上野から故郷へ、土産を持って乗っている人たちが大勢いた。私はひとりの単なる旅人だったが、彼らは必須不可欠な帰郷者であった。東京の住民とは異なる僻地のことを、否が応でも感じた。
なお、その時の私は、朝、稚内に着いた後、すぐ利尻島へ渡った。利尻島で何をしたのかは憶えていない。その夜、稚内へ戻ってきた。そこで初めて宿へ泊まった。上野を出た後、2昼夜動いていた後、初めて宿へ。若かった故にできたことだな。
それはそれとし、47、8年経った今である。
このような道を歩く。
離島へのフェリーターミナル。
この船にはアマポーラ宗谷、と記されている。
港である。
ここには、「礼文行車両」と記されている。
タンクローリーのような車が走る。
よく見ると、「サイプリア宗谷」と読める。
やはり、利尻、礼文への離島フェリーである。
ターミナルの中からアマポーラ宗谷号を見る。
ターミナルの建物に食堂があった。ラーメンを食った。
その後、電話でタクシーを呼んだ。稚内バスターミナルへ行く。
岡江久美子が死んだ。
昔、「連想ゲーム」という番組を見ていた。
新型コロナウイルスの仕業らしい。志村けんに次ぐ衝撃。
今日、学生時代の友人からきたメールをひとつコピペする。
いやー何とも凄い言語感覚なので。
<気を付けよう 感染招く 集・近・閉(しゅうきんへい)>。
そうだよね。
ホント、習近平には落し前つけてもらいたいよ。