昭和天皇の心奥。

昨年の8月23日、多くのメディアは昭和天皇の侍従であった小林忍の日記が見つかったことを報じた。その中に昭和天皇が、1987年4月7日に小林忍侍従に語ったこういう言葉が記されている。
「長く生きても仕方ない。辛いことを見たり聞いたりすることが多くなるばかり。戦争責任のことをいわれる」、との。この時、86歳近くになられていた昭和天皇、その心の奥底に戦争責任という言葉が引っかかっていたようだ。


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10日前の今月17日、NHKは「昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録『拝謁記』~」を流した。
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初代宮内庁長官・田島道治が記した記録をNHKが手に入れた、という。
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「拝謁記」、昭和24年(1949年)2月から昭和28年(1953年)12月までの4年10か月の間、昭和天皇に拝謁した時の会話が記されている。
田島道治、この間600回余の拝謁をなし、昭和天皇との会話を事細かく記している。
昭和天皇は田島道治に心を許していたようだな、ということが感じられる。
毎年夏になるとこの本、ともいうべき『昭和天皇独白録』はとても面白い書である。保阪正康は、<天皇は直接には国策にかかわりをもたなかったというアリバイづくり>(『昭和史七つの謎』 講談社 2000年刊)と記しているが、私は、以前にも記したことがあるが、この書は寺崎英成らによる昭和天皇のエクスキューズを引き出した記録、と考えている。いずれにしろ、東京裁判対策。
その点、田島道治が記した昭和天皇の言葉はとても自然。
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張作霖爆殺の謀略、関東軍が引き起こした。
昭和天皇、27歳である。大元帥であるが、思えば若い。
次々に軍部は暴走する。
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無謀な戦争に敗れ、東京裁判で戦犯が裁かれる。
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昭和天皇、田島道治にこう語る。
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昭和3年(1928年)の関東軍による張作霖爆殺事件の時に、キチンとした処置をとっていれば、と。悔恨の思い。
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こうも語る。
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しかし、天皇は統治権の総攬者であり、主権者でもあった。
「宣戦前か或いはもっと早く止めることができなかったのか、と言うことが退位論者でなくとも疑問に思う」、また、「首相をかえることは大権でできること故、何故しなかったかと疑う向きもあるかと思うが、事の実際としては下剋上で、とてもできるものではなかった」、と昭和天皇は語る。
昭和天皇、その反省を心の奥に抱く。
しかし、それができなかった。
時代が流れる、
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ダグラス・マッカーサーの思惑。
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東京裁判での東條英機の天皇を守る、との思い。
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そして、吉田茂の国際社会を見据えた冷徹な意志によって。
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1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効、日本は国際社会に復帰する。
その年の5月3日、憲法記念日での昭和天皇の「おことば」についてである。
昭和天皇は、田島道治にこう述べられる。反省の文言を入れたい、と。
「責任」の思いがあったのであろう。昭和天皇が思われていたのは、「皇祖皇宗及び国民に対する敗戦の道義的責任」ということであったが。
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昭和天皇の責任問題、また、退位すべきとのことごと、それまでにもご自身の身のまわりからも出ていた。昭和天皇の母君である皇太后からも、弟君である高松宮からも。
それらをはねつけていた昭和天皇も、講和後の「おことば」では、何としても「反省」の文言を折りこみたかった。
しかし、その件、そっくりそのまま吉田茂に削除される。
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このようなことや・・・
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このような文言も。
「事志と違ひ(意に反し)」、ということは、反しなければ止められたではないか、ということになります、と田島道治は応える。
昭和天皇は、反省の言葉さえ表明されることなく、時を過ごされることとなる。道義的責任さえも。
道義的責任、反省であっても、それは天皇の退位に繋がる、という首相・吉田茂の意志によって。
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1952年5月3日、昭和天皇の「おことば」に「反省」の言葉はなかった。
昭和天皇はそのことをずっと気にかけておられた模様。崩御される少し前、86歳近くでも戦争責任のことが頭から離れなかったのであるから。
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ポツダム宣言受諾、無条件降伏をしてから7年である。
改めて思えば、昭和天皇は歴代天皇の中で唯一、軍人としての教育を受けてきた天皇である。開戦、敗戦ばかりでなく、そのケジメの意志さえ阻まれたことに、忸怩たる思いがあったのではないか、と考える。
今も健在の大勲位・中曽根康弘も、若かりし青年代議士のころ、講和発行の時が天皇退位の時ではないか、と発言している。それに対し時の宰相・吉田茂はそのような輩は非国民である、と一喝している。
これはこれで面白い。
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諸々の天皇退位説、この時で収束する。
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その後の昭和天皇、このようなことも発言している。
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憲法9条を改めるべきだ、と。再軍備すべきだ、と。
田島道治は、そのような政治向きのことは言われない方が、と昭和天皇をお諫めしている。
昭和天皇、「君主」であった時代と「象徴」になった時代の切り替えが今ひとつ、と言うことがあったようだ。
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昭和20年8月15日未明、無条件でのポツダム宣言受諾に最後まで反対していた陸軍大臣・阿南惟幾は、自裁する。刀を用いての立派な自裁。
昭和天皇のお側近くの公爵・近衛文麿も巣鴨プリズンへの連行当日、服毒自殺する。
昭和天皇は生きる。
1989年1月7日まで。
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昭和天皇への拝謁記、これで終わる。
人間・昭和天皇がよく現れている。
軍人・武人として育てられたが、それに徹することができず、心奥、心の奥底にモヤモヤを持っている昭和天皇。その思い、よく分かる。


フランスで開かれていたG7、終わった。たった1枚のペーパーで。
元凶はトランプだ。「なんでG7なんかに行かなきゃならないんだ」、なんて言っている。「G7に、またロシアを入れよ」、とも。
私は、G7からアメリカを外したらいいのじゃないか、と思っている。G7でなくG6となったらいい、と。」
G7を抜けたアメリカは、ロシア、中国と共にG3を構成すればいい。軍事強国であり、オレオレ第一、という国でもある。
いいんじゃないか。やや、無責任だが。


米中摩擦、エスカレートしている。
いったいどこまで行くのか、よく分からない。チキンレースなのか。
このところのマーケット、ニューヨークダウも日経平均も乱高下。
どこへ行くのか。
アメリカも中国も世界の人類にに対し、責任を負っているんだぞ、と思うことしきり。