『昭和天皇実録』の恣意と配慮(続き)。

今日の各メディア、共同通信が配信した長年昭和天皇に仕えた小林忍侍従の日記が残され、そこに晩年の昭和天皇の「心の奥」が記されていることを報じている。1987年4月7日の日記。
85歳になられていた昭和天皇、その前夜、「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」、と小林侍従に語られたそうだ。
戦争責任について言われることを気にされていた、ということである。
実は、昭和天皇ご自身が「戦争責任」という言葉を発しておられることにまず驚いた。
私は、侍従はじめ昭和天皇のお側に仕えた人たちの日誌や日記の類はまったく読んでいない。つまり、一次資料は読んではいない。
私が読んでいるのは、毎年8月になると引っぱりだしてくる『昭和天皇独白録』。また、福田和也の『昭和天皇』や半藤一利、保坂正康、原武史などのごく一般的なものばかり。
実は、私が読んできたそれらの書の中に、昭和天皇ご自身が自らの戦争責任について述べられた記述はなかったからである。それ故に驚いた。
終戦の時にはご聖断を下されたのに、何故開戦時には黙認されたのか、という単純な問がある。昭和天皇の答えは、自分は専制君主ではなく立憲君主であったからである、というもの。その論旨を貫いた。だから、晩年にいたり自らの「戦争責任」につきどうこうと言われることにご心痛であられたのであろう。
昭和天皇の戦争責任、退位ということと結びつく。
退位についてのご言及も少ないが、著作権者宮内庁の『昭和天皇実録』第九(平成28年 東京書籍刊)にこういう記述がある。
ポツダム宣言を受諾した2週間後の昭和20年8月29日の『・・・・・実録』。
<・・・・・。午後、内大臣木戸幸一をお召になり、一時間十分にわたり謁を賜う。その際、自らの退位により、戦争責任者の聯合国への引渡しを取り止めることができるや否やにつき御下問になる。・・・・・>。
木戸幸一の答えは、ご退位をされても戦争責任者の引渡しを止めることはできないであろうし、・・・、というものであった。
また、終戦翌年の昭和21年3月20日の『寺崎英成御用掛日記』に次のような記述がある。
寺崎英成、『昭和天皇独白録』を世に残した男である。言わずもがなであるが。
<木下と話 御退位の問題聞けぬかと云ふ 夜「フェラーズ」に三人してよばれる・・・・・ 例の話をした お上 くさって居らるゝ由>との記述。
フェラーズはGHQの中で最高司令官・マッカーサーに次ぐ男である。絶大な力を持っている。
昭和天皇が退位しなければならないかどうか、関係筋へ聞いてもらえないか、というお側から寺崎への依頼なんだ。
『昭和天皇独白録』と共に『寺崎英成御用掛日記』の「注」も記している半藤一利によれば・・・・・
眠くなってきたので端折っちゃお。
<・・・・・フェラーズは答えている。「天皇にはテクニカル リスポンシビリティあるも、モーラル リスポンシビリティーなし」と。この「テクニカル云々」については、元首としての形式上のと解す、と寺崎は注をつけて、・・・・・>、と。
今日はここまでとしよう。また、明日。