湖北・長浜逍遥(16) 慶雲館。

御一新、明治になってからでも豪商と言われる人はいた。会社組織はとっていても、その本質は個人商店の延長のようなもの。自ら使いたいように金を使う。
長浜にもそのような人がいた。名は浅見又蔵。
<明治19年(1886年)秋、明治天皇皇后両陛下が京都行幸啓の帰路に、大津から船を利用し長浜に上陸される、との報が入りました。浅見又蔵翁は早速私財を投じ、陛下の誕生日である11月3日、・・・>、行幸啓日の翌年2月21日までの3ヶ月余りの突貫工事で、いわば迎賓館となる慶雲館を造りあげる。当時としては破格の1万円の巨費を投じ。
慶雲館のパンフには上述のようなことが記されている。
長浜城から慶雲館までは、すぐ近く6、7分である。4時半近く、入館締め切りの準備をしているところへ入った。ギリギリの時間であったが、どうぞどうぞお入りくださいごゆっくり、と係の人の対応、長浜のホスピタリティー、気持ちがいい。

慶雲館入口。

このような説明板がある。

表門から中門へ。

中門から本館玄関へ。
表門から中門への間の前庭、中門から本館前の玄関前庭、大きな自然石を配した庭が続くが、時間が押している故、目を配るだけで通りすぎる。

慶雲館の命名者は、初代内閣総理大臣・伊藤博文なんだ。
この「慶雲館」と墨書された扁額、明治20年、明治天皇皇后に随行して長浜へ来た伊藤博文の手になるもの。

明治天皇と皇后、明治20年2月21日午後1時に長浜港へお着きになり、慶雲館へ入られた。

慶雲館の展示、まず2階へ。

階段を上がると広い部屋。
窓の外には豊かな緑。

こちら側は・・・

金砂子を散らした襖に鶴。その数、19羽。

「天行健」と書かれた大きな扁額がある。

犬飼毅の書である。
天行健、このような意。

浅見又蔵、当然のことに「玉座の間」も造った。

このような。
伊吹山と琵琶湖が一望できたんだ。

明治天皇皇后の長浜行幸の翌日、明治20年2月22日付けの中外電報・日出新聞(現在の京都新聞の魁)の記事である。
よくは読めないが、その要約も展示されている。
それによると・・・
<明治20年2月21日午後1時に明治天皇・昭憲皇太后が長浜の港に到着され、新たに設けた長廊下を通って行在所である慶雲館へ向かわれた。・・・・・。・・・・・。長浜の停車場を出発されたのは午後2時5分であった。・・・・・>、と。

窓の外は、本庭(奥庭)。

緑と石。

慶雲館建設25周年を記念して明治45年(1912年)に造営された。

この緑、美しい。

この庭園も含め約6000平方メートルの広大な敷地の慶雲館、現在では浅見家から長浜市へ寄贈され、市の迎賓館となっている。

窓で切りとっても趣きがある。

1階へ下りる。
大きな部屋に「披大膽決大計」の大きな扁額。

このようなもの。
なるほど。
勢いの横溢していた明治を思う。

慶雲館を出ると、すぐ長浜の駅。
明治20年2月21日、明治天皇と皇后は、長浜滞在1時間と5分で長浜駅を発ち名古屋へ向かった。
平成29年10月22日夕刻に長浜に着いた私は、10月25日の夕刻までほぼ3日間を長浜で過し、米原へ行った。
米原までのJR、約10分。米原で「ひかり」のチケットを取り、急いでホームへ。乗り換えの時間は少ない。
ホームの売店で駅弁と京都新聞を買い、ホームに滑りこんできた「ひかり」に飛び乗る。
駅弁には、竹生島で食った赤こんにゃくも入っていた。


湖北・長浜逍遥、これにて終わる。
湖北・長浜、司馬遼太郎の長浜もあり、白洲正子の長浜もあり、秀吉や浅見又蔵の長浜もあった。
3日間ゆるゆると歩いていたが、湖北・長浜、堪能した。


羽生善治、永世7冠を達成した。
将棋のことは知らないが、凄いことだということは分かる。