湖北・長浜逍遥(15) 秀吉。

湖北・長浜、秀吉を忘れちゃいけない。
JR長浜駅で降りると、東口へ出ようと西口へ出ようと秀吉に行きあう。

表側、市街地側の東口には、階段を下りたすぐ前にこの像が立っている。

こういうもの。秀吉と三成の出逢いの像である。
石田三成、長浜の生まれなんだ。

琵琶湖側、長浜城側の西口をエスカレーターで下りていくと、目の前にお馴染みの秀吉の顔が現れる。徐々に徐々に。

「秀吉がつくったまち長浜」というコピーがある。
長浜、秀吉が造ったんだ。町の名も、「今浜」から「長浜」に改名した。

長浜城はすぐそこ。
高月から戻った後、少し寄ってみた。

枝の向こうに長浜城が見えてきた。

長浜城、天正元年(1573年)、豊臣秀吉によって築城された。秀吉が初めて持った城である。
しかし、現在の長浜城は、昭和58年(1983年)に模擬復元された鉄筋コンクリート造。いずこもそうであるが、鉄筋コンクリート造のお城は味気ない。

長浜城、今は長浜城歴史博物館となっている。
展示室は2階と3階のみ。
この日は展示変えとかで、開いていたのは2階のみ。それもさしたる展示でもないのに、撮影禁止、何々禁止、となっている。お上感覚である。
秀吉が泣く。場合によっては切腹を申しつけられるよ。

説明板がある。
が、琵琶湖を渡る風に晒された故であろうか、記された文字、今にも消え入りそうになっている。
かろうじて冒頭の部分を読んでみると、<長浜は羽柴秀吉が江北に12万石の領主としてはじめて自らの城を築き城下町を形成した地であります。・・・・・>。
そう、一介の百姓の子倅が、自らの才覚、さらには運にも恵まれ、天下人となる。長浜は、その秀吉の天下取りゲームの一里塚であった。

最上階、展望台へ出るところにこのようなものがあった。これは撮ってもいいらしい。
己高山、竹生島、国友村、姉川合戦場、賤ヶ岳合戦場、そして、石田三成出生地、石田三成捕縛地、・・・、・・・。思いに残る名称がある。

展望台へ出るところに、このような貼り紙があった。

案の定、帽子を飛ばされている人がいる。屋根瓦の先の方、黒く写っているのは帽子である。
そんなことより、下に見えているのは「豊公園」である。長浜城もその一部。竹生島への船が出る港も「豊公園」の一部である。
そうであります。「豊公園」の「豊」、「豊臣秀吉」の「豊」であります。それほどに、長浜と秀吉の関係は深い。

お城の上の展望台から北の方を見た。
左の方に薄く見える低い山のようなものは、竹生島である。右の方、煙突の後ろの方には、高月、木之本、そして余呉がある。

秀吉がらみで、あとひとつ。
JR長浜駅で降りホテルへ歩く途中に、このようなものを見つけた。「従是東長濱領」と彫られている。いったいこれは何なのだ。
ここから東は長濱の領地である、ということのようだ。東ばかりじゃなく、東西南北いずれもある。つまり、豊臣秀吉が治める長濱の領地である、ということである。
天正19年(1591年)、秀吉は長浜の町人に、年貢米300石を免除する朱印状を発布したそうだ。その東西南北の長濱の領地内に。経済を活性化させる策である。
経済特区とも言える。さらに進めて考えれば、タックスヘイブン(租税回避地)とも言えるのじゃないか。
いずれにしろ、人心収攬に長けた秀吉ならでは。