雪の里アート巡り(12) 鈴木牧之記念館。

六日町から塩沢まで、JR上越線でひと駅わずか5分足らず。しかし、その5分足らずの塩沢までに一週間少しが経ってしまった。
このところ、堪え性がなくなっていることが顕著。
面倒くさくなる。我慢ができなくなる。だから、六日町から塩沢へJRでわずか5分足らずの距離を移動するのに一週間以上を要することになる。
3月6日の3時前、塩沢に降りた。駅前には雪がない。鈴木牧之記念館までは1キロ少しある。駅前にコインロッカーはない。困ったなと思っていると、タクシーが1台戻ってきた。で、それで鈴木牧之記念館へ。

ほんの数分でここへ着いた。
鈴木牧之記念館。道路は除雪されている。

木造の大きな建物である。

このようなもの。

チケットなど。
そのいずれにも大きなかんじきをつけた男が描かれている。後述するが、鈴木牧之著『北越雪譜』に描かれた男である。

鈴木牧之記念館に入ると、平成吉年吉月吉日吉曜日付けの「ぼくし通(つう)」というチラシをくれた。その一部。
『北越雪譜』は、このような書。
なお、著者・鈴木牧之についてはこういう記述がある。
<半年も雪に埋もれる越後塩沢、その三国街道沿いに鈴木屋(越後縮仲買、質屋)があり、そこの主人は鈴木儀三治(ぎそうじ)といった。儀三治は明和7年(1770)に生まれ、幼い時から商売の勉強の他、文芸、書画を好む人であった。・・・、その俳号を「牧之」といった。・・・>、と。

鈴木牧之の没後120年を記念し、昭和37年に鈴木牧之顕彰会が編んだ小冊子を求めた。

その小冊子にある牧之の自画像(推定)と句。
いかにも外は深い雪、その中で籠っている、という趣きが伝わってくる。雪国だ。

<牧之は19歳の時に商売で江戸へ行く。越後とは異なる風土や暮らし、雪を花や月のようにめでる江戸の人々。雪国の話は、異国のことのように理解されない。それに戸惑う牧之。そんな思いから雪の本の出版を志すが、・・・>、と前出の「ぼくし通」にある。
しかし、それが形となったのは40年近く経ってから。
雪そのもの、自然の観察、雪国の生活、・・・・・。「雪譜」である。
上は「雪の形」。
1833年に刊行された土井利位による『雪華図説』を、牧之が筆写したもの。

鈴木牧之記念館の中、撮影は許されていない。
が、どうぞお持ちくださいというものがある。紙を切り抜いた小さな雪片。ひとつまみいただいた。
それを前出の小冊子の上に散らした。
6角形、6方に飛び出す「六出」もさまざまだ。

「雪中晒縮圖」。
越後の地、越後縮(越後上布)の地である。雪晒し。

「雪中幽霊之圖」。
<塩沢の隣が関の宿、これにつづくのが関山。・・・・・、一夜に三尺も五尺も積もると、・・・・・。この関山村に源教という道心坊が庵をむすんでいた。・・・・・。・・・・・。幽霊はただ黙っている。その姿は・・・・・>。
幽霊、妖怪、「奇談」が増えていく。「雪談」よりも。
どういうことか。

これは、「山中異獣の圖」。
私が読んでいるのは、著・鈴木牧之、現代語訳、解説・池内紀による『北越雪譜』(小学館、1997年刊)である。これが面白い。鈴木牧之のお話も面白いが、池内紀の解説が面白い。何が面白いのかって・・・
池内紀、怒っているんだ。
鈴木牧之が雪国の暮らしを本にして世に知らしめたい、と思ったのは30代のはじめ、実現したのは天保8年(1837)、牧之は67歳となっていた。江戸では無名の地方人の記録である。致しかたない、といえばそうではある。
鈴木牧之の生きた時代、今に知られる江戸戯作者の面々とほぼ同時代。
池内紀、こう記す。
<牧之はまず世に知られた戯作者山東京伝に稿本をもちこみ、相談した。京伝の加筆をもって、「山東京伝著述、北越鈴木牧之校正」といったスタイルで出せないか>、と。
鈴木牧之、山東京伝にへりくだって頼んだそうだ。が、版元は刊行をしぶった。
次は、滝沢馬琴に相談した。が、馬琴は動かない。<しびれをきらして大阪の岡田玉山に依頼した。・・・が、玉山が没して計画も消えた>。馬琴など預けた稿本や挿し絵も返してこなかったそうだ。
<とどのつまりは京伝の弟の京山が割って入って、ようやくことがすすみはじめた。いずれの場合にも越後の縮商人は、諸先生方に手厚いお礼をしたにちがいない。いよいよ本にするときまってから、一度現地を見る必要があると称して、京山・京水親子は塩沢にやってきた。50日あまり滞在、越後に遊ぶ。当地にいたのは、むろん、季節のいい夏のことだ。雪の季節に現地を踏むなど、めっそうもない>、と。
池内紀、越後のというか、地方の研究者を食い物にする江戸の文化人に怒っている。
さらにである。
鈴木牧之の「雪譜」が「奇談」に押しのけられてくる。都会地の人間には、雪そのもののことよりも雪に絡んだ奇談の方が興味深い故にである。だから、異獣の話も。
刊行形態もこうなる。
<越後塩沢 鈴木牧之 編撰
 江戸   京山人百樹 刪定>、と。
<江戸の刪定者は好みのままに雪の譜を落として奇談のおもむきをふやしたようである。「二編」では文中にやおら、「百樹曰く」と名のりをあげて入りこむ。そしてラチもない見聞や知識を、したり顔して披露した>、と池内紀は断じる。
だから、池内紀は、「百樹曰く」を無視、訳さなかった、つまり取りあげなかったそうだ。
いまでもこのようなことは、ままあるのじゃないかなー。市井の研究者と大学の権威者などとの間で。
なんのかのと言っても『北越雪譜』、面白い書である。

「雪中歩行の道具」。
右ページの上は、右から「藁沓」、「深沓」、ハツハキ」。下は、右から「む祢かけ」、「志ぶらがみ」、「かじき(かんじき)」、「すがり」。
左ページの大きなかんじきである「すがり」を履いた男の姿が、牧之記念館のアイキャッチとなっている。こんな大きなかんじき、慣れないととても歩けないよ。

鈴木牧之記念館を出て、三国街道の方へ歩く。
4、5分で三国街道へぶつかる。角は塩沢郵便局。
街道筋、雪はまったくない。が、後ろに迫る山々は雪模様。

旧三国街道、塩沢宿。

駅の方へ歩く。
若狭屋書店。
通りには味のある雁木が続くが、その雁木の上にも雪はない。そう言えば、行きに乗ったタクシーの運転手に、「今年は雪は少なかったんですか」と訊いたのに、「そうですね」という答えだった。3月初め、まだ雪の中に埋もれている年もあるだろうに、その点、部外者にはチト残念。

こういうものがある。
ややひしゃげた柱に積雪量が記されている。下から見てみると・・・
平成18年 0.75M、昭和52年2月2日 1.41M、平成13年 2.10M、昭和60年 3.00M、昭和58年 3.7M。
昭和52年2月2日のところには「1日の降雪量」と記されているが、他の年もそうであるのかどうかは分からない。3M以上のところは、根雪の最大値かもしれない。
それはそうと、後ろの土蔵のようなものは金融機関である。

正面はこれ。
「両替 しおしん」って書いてある。「塩沢信用組合」である。塩沢の銀行である。

牧之記念館を出た後、郵便局のところで三国街道を右へ曲がり、若狭屋書店や塩沢信用組合の前を通って駅へ曲がるところまで来た。

ここで右へ曲がる。
「牧之通り」って大きな看板が出ている。塩沢、今では鈴木牧之が最大の売りってことかもしれない。

駅へ戻ってきた。
三国街道側の駅前はきれいに除雪されているのだが、駅近くというか線路の近くには多くの雪がある。

町中でない駅の向こう側、線路の向こう側は、すべて雪に覆われている。

牧之記念館で求めた小冊子の中の北越地図に、今回私が訪れた町に赤いマーカーを引いた。
十日町にコンパスを合わせると、いずれの町も半径10数キロの中に入る。雪の越後の狭い範囲を巡ったことになる。
新幹線への乗り換え駅の越後湯沢は、スキー客でごった返していた。日本人ばかりじゃなく中国人をはじめとするアジア人、白人、黒人、さまざまな人で。
身体の具合が今ひとつしっくりとせず、途中で何度か中断があった「雪の里アート巡り」、これにて千秋楽とする。
関東では、花見ももう終わりだな、いやまだ残っているぞ、というころとなった。越後の地でも、今年は根雪も消えているのでは。