オホーツクふらふら行(8) 網走。

今年は閏年、2月は29日まである。
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その日の道新。
一面トップは前日夜の北海道知事・鈴木直道の緊急事態宣言。週末の外出自粛要請も。
鈴木直道、この日東京へ飛び、総理大臣・安倍晋三へ北海道支援の重点策を要望する、とも。
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鈴木直道、こう語っている。
緊急事態宣言も外出自粛も法的根拠はない。私の思いつきで言っている。また、安倍首相への緊急要望は、北海道を重点地域に指定してもらって感染拡大防止のモデルをつくる、と。
道新紙面には、「政治決断」演出狙い、とのことも。
10数年前、東京都庁から財政破綻の夕張市へ派遣され、立て直し、その後夕張市長となり、昨年北海道知事となった男が鈴木直道だということ程度は知っていた。
が、今回暫らく北海道に行っていて鈴木直道のことをさまざま知った。
毎日、テレビに出てくるんだ。白いマスクをして。
まだ30代。全国で最も若い首長である。ともかく行動をおこす。その時々の権力やパワーが何処にあるか、アタックする。夕張時代、民主党が政権を握っていたころには、時の総理・野田どじょうへもアプローチしている。今は、安倍晋三、菅義偉、オリンピックがらみで小池百合子といった面々。
野心家である。恐らく北海道知事を2、3期やった後は国政へ打って出るであろう。自民党が担いで国政に。最終的には、日本のトップを視野に入れているのでは。今後の日本のトップ、小泉進次郎が云々と言われているが、進次郎よりも若いし、ぼんぼんの進次郎、何よりも苦労人である鈴木直道には叶わないであろう。
演出狙いということも感じられる。
法的根拠のない緊急事態宣言など、私には大きな迷惑であった。そのニュースを見たカミさんから、羽田に戻っても2週間、14日間はどこかのホテルに自主退避していてくれ、と電話がかかってきたのだから。ほとんど人に会わない所をふらふらしている私だったのだが。
鈴木直道、パフォーマーといえばパフォーマーであるが、自らを律することも徹底している。
夕張市長時代には、市長報酬を70%カットし、日本一安い給与の市長と言われたそうだ。公私混同、公金で家族旅行をしていた東京都知事・舛添要一や、台風に襲われた時、公よりも私を優先して行動したにもかかわらず、3か月間わずか1割の報酬カットとした、千葉県知事の森田健作のセコさとはまるで異なる。鈴木直道、退職金もゼロとした。
鈴木直道については改めて記そうかとも思っているが、今日はこの程度とする。
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この日も晴天。
朝食を食べた後、駅へ。
前日は10分ばかりかかったが、この日は網走駅まで6、7分であった。
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この辺りの車道は完全に除雪されている。
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駅の手前の網走川を渡る。
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網走駅。
「オホーツク・網走」の大きな看板がある。
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このような像が。
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このようなモヨロ人。
<・・・、網走の”モヨロ人”は、れきとした北方人である。冬は竪穴を掘って、あつく草の屋根をかぶせ、寒気をふせぐ。かれらは、流氷の海で海獣を追ってくらしていた>、と司馬遼太郎は記している。
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筆文字で書かれた「網走駅」の看板。
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このようなもの。
私はこの後、駅の案内所で博物館巡りの1日パスを求める。15年前にも行った3つの博物館へ行くつもりであった。
が、道立北方民族博物館は急遽閉鎖されたという。仕方ない。網走監獄博物館とオホーツク流氷館のみに行くこととする。


ところで、芭蕉の『奥の細道』と並ぶ国民的紀行文学とも言える司馬遼太郎の『街道をゆく』は、さまざまなスピンオフ作品を生んでいる。
『街道をついてゆく』(朝日新聞出版 2008年刊)という週刊朝日の記者・村井重俊の「司馬遼太郎番の6年間」というものもある。
NHKスペシャルで映像で追ったものを書籍化した『司馬遼太郎の風景』(日本放送出版協会 1999年刊)というものもある。
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その書にある「オホーツク街道」関連地図を複写する。
司馬遼太郎は、1991年9月と1992年1月の2度オホーツクを訪れている。網走にも。
網走ではモヨロ貝塚や常呂の遺跡を訪れている。
この地図には記されていないが、司馬遼太郎、オホーツク沿岸のあちこちの遺跡を訪れる。水先案内人の専門家に導かれて。


一昨日で北海道から羽田へ帰ってきて2周間となった。昨日で半月。
この半月間、世界中の新型コロナウイルスの状況は劇的に変化している。ヨーロッパがパンデミック。アメリカも危ない。これからはアフリカとなろう。
このような時に、能天気に「オホーツクふらふら行」なんてことを記しているのはどうか、という思いはある。第一、何故このような時にオホーツクに行ったのか、ということ。
実は3年前、オホーツクの流氷を見ようと計画した。
飛行機のチケットも予約し、ホテルも予約した。しかし、身体の具合がおかしくなった。何かヘンだな、という具合。予約はすべてキャンセルした。
2年前にも厳冬のオホーツクへ行こうと思った。
が、またも身体の具合がおかしくなった。何かヘンなのだ。医者に行くと、肺炎だと言われた。12日間入院した。
昨年もオホーツクへ行こうと思った。が、またも身体が何かヘンな状態となった。行くのを諦めた。今年の冬、2月にも身体の具合が何かヘンになった。今までと同じ。今年はさらに昨年からの足腰の痛みが加わっている。オホーツクへ行くことはだんだん厳しくなっている。仮に来年まで生を保ったとしても、厳冬のオホーツクへ行くことはより厳しくなろう。
どうなるかは分からないが、オホーツクへ行くこととした。
帰った後のこの2週間、孫たちはまったく来なかった。おそらくカミさんが2週間、14日間は来てはいけない、と言っていたのであろう。
昨日、孫たちが来た。ワーワー泣いたり、ウンチをしたり賑やかであった。彼らの時代、私は退場だな、ということを感じた。
一昨日であったであろうか、TOKYO2020からのメールが来ていた。
大坂なおみを起用した大会モットー。”United by Emotion”。何やってんだ、と思った。
聖火も日本へ来て、展示やリレーが始まるらしい。7月にオリンピックをやる、と。
何考えているのだろうか。
組織委員会のトップ・森喜郎もはっきり言ってヘラヘラだ。JOC会長でIOC委員の山下泰裕も、柔道は強かったが頼りないことこの上ない。
聖火リレーなんてことより、一刻も早く1年ないし2年の延期をIOCに申し入れるべきであろう。でき得れば2年の延期を。
現状に対応できなければ、東京五輪とパラリンピック、中止ということが十分に考えられる。