三陸沿岸紀行(25) 瑞巌寺。

<このあと、芭蕉は臨済宗の大刹瑞巌寺へ行っている。私どもも訪ねた>、と前出の朝日文庫『街道をゆく26 仙台・石巻』の中で、司馬遼太郎は記している。
私も訪ねる。

瑞巌寺総門。
「桑海禅林」と書かれた大きな扁額が架かる。瑞巌寺、臨済宗妙心寺派の古刹である。

しかし、瑞巌寺、今、平成の大修理の真っ最中。
今、公開されているのは、赤いところのみ。主な建物の過半は修理中であった。<政宗が、京の工匠たちをよんで桃山ふうに仕立てた建築だけに、華麗なものである>、と司馬遼太郎が記す本堂や中門、御成門なども含め。

洞窟群。

司馬遼太郎は、<それらしい説明はない>、と言っているが、今は、簡単なものではあるが、このような説明板が立っている。

洞窟群の前の33体の観音さまに関しても、このような説明書きが。
ふたつ前の写真の右手前の観音さまは、第一番那智山青岸渡寺の本尊・如意輪観音像である。

岩を抉った洞窟が続く。

西国の霊場の観音さまも続く。

西国三十三観音巡拝所の結願は、第三十三番岐阜県谷汲の谷汲山華厳寺本尊・十一面観音像。

庫裡の方へ歩く。

庫裡。

中へ入る。
国宝である。でも、とてもそうとは思えない。

伊達家歴代の大きな位牌が安置されている。

本堂が修理中のため、大書院が仮本堂となっている。

御本尊・聖観世音菩薩。

廊下に、<おかげさま>、<行ずる>、<今を生きる>、というポスターがあった。
禅寺だ。

この道を行くと、政宗公の正室・愛姫の豪華絢爛な墓堂である陽徳院御霊屋(寶華殿)に至る。
緩やかではあるが、上り道で約15分、とのこと。行かなかった。

修理中の修行道場であろうか、大きな建物を横に見て戻る。

こういうところを通り、宝物館を観て。
瑞巌寺へ来たのは、ずいぶん久しぶりである。大修理中ということもあろう、厳かな感じなどまったくなかった。おぼろげな記憶では、厳かな古刹・大寺の印象もあったのだが。仕方ない。
司馬遼太郎の『街道をゆく26 仙台・石巻』は、そのフラストレーションを癒やしてくれる。
<政宗がこの地に瑞巌寺をひらくのは江戸初期だが、ここには平安初期から大寺があったそうである。最澄の弟子の円仁(794〜864)の開基であるという。最澄の死後、・・・・・、やむなく最澄が求め残した密教教義を再輸入すべく入唐した。その旅行記『入唐求法巡礼行記』はライシャワー博士によって研究され、・・・・・>、とシバリョウ。
円仁については、いささかの思いがある。
昨年の夏前、比叡山から洛北、洛東の寺を幾つか巡った。比叡山で泊まった宿坊の部屋の床の間には、≪圓仁入唐求法巡礼図≫が架かっていた。比叡山山中の多くの堂宇、その開基は円仁、というものが多くあった。
第三世天台座主・慈覚大師円仁、人間がとてもよくできた人であったようだ。
朝日文庫『街道をゆく16 叡山の諸道』の中でも、円仁についての司馬遼太郎の筆、とても優しい。功名主義というようななまぐさいものが、まったく感じられない、とべた惚れ。
『街道をゆく16 叡山の諸道』書中では、傳教大師最澄よりも、慈覚大師円仁の名が出てくる頻度が高いほど。
『街道をゆく26 仙台・石巻』の方へ話を戻そう。瑞巌寺の円仁に。
<円仁は、下野国(いまの栃木県)のひとであった。・・・・・。それにしても、かれを開基とする寺は、かくれもない名刹が多い。平泉の中尊寺、おなじく毛越寺、出羽の立石寺、それにこの松島の瑞巌寺(当時は円福寺)などである。後世、以上のことごとくを芭蕉が訪ねた>、とシバリョウ。
このあと、芭蕉一代の名句が3句記されるが、端折る。
そして、<くりかえし惜しまれるのは、松島においても瑞巌寺でも、芭蕉は句をつくらなかったことである>、と記す。
その2行あと、
<かれは、死後の名を惜しむ人であった。・・・・・、・・・・・。かれは存命中、自分の作品が古典になることを知っていたまれな人だったのである。むろんそれは、傲りではない>、と記し、さらに続けて、
<人の運命は、はかない。そういうかれが、駄じゃれのような句をかれの作として観光客の目に曝らされつづけているのである。李白や杜甫やゲーテは、こういう目に遭っているだろうか>、と記し、松島と瑞巌寺の巻きを閉じる。
司馬遼太郎、松島では最後の最後まで、「松島や ああ松島や 松島や」なるものを、芭蕉の作としている松島の地に怒りをぶつけている。
そう言えば、『街道をゆく26 仙台・石巻』の松島と瑞巌寺のくだりのタイトルは、「詩人の儚さ」となっている。
憤ってはいるが、儚いって思ってもいるんだ、司馬遼太郎。
その心情よく解かるが、やはり物書き、創造者、詩人の感覚だ。武闘派の感覚ではないな。