三陸沿岸紀行(24) 松島海岸。

駅への途中ホテルへ寄り、小さなリュックを取りチェックアウト。
10時58分発のJR仙石線の電車で松島海岸へ。

JR仙石線石巻駅のホーム。
上の方に何かが見える。

仙石線全線復旧って、ついこの間までは、そうではなかったってことらしい。

石巻を出てから20分少し経った頃、野蒜の向かいのホームにこの電車が停まっていた。
石ノ森章太郎のキャラクターが描かれている。

この車両には、「萬画丹線 弐」、と描かれている。
そう言えば前の夜、駅の建物に「マンガッタンライナー」という絵が描かれていたが、「マンガッタンライナー」、「萬画丹線」なんだ。確かに。
そして、「弐」があるってことは、「壱」もあるんだ。きっと。
それにしても、石巻では知らないことばかりだったな。
高城町で乗換え、11時40分頃松島海岸へ着く。

駅前の45号線を渡ると、すぐに松島湾。

小さな船が多く泊まっている。

松島にはもうずいぶん昔、子供が小学生の頃、連れて行ったことがある。その時には遊覧船に乗った。が、今回は、もちろん乗らない。

私は、石巻から仙台へ向かう途中松島へ寄った。しかし、先述の朝日文庫『街道をゆく26 仙台・石巻』で司馬遼太郎は、仙台から塩釜、松島を通り石巻へ行っている。通常はそうである。北へは上るのが普通。
私は、電車で松島海岸に。司馬遼太郎は、仙台までは大阪から飛行機で、仙台からは車で。司馬遼太郎が須田画伯と呼ぶ須田剋太と、週刊朝日の担当編集者と共に。
松尾芭蕉も江戸を発った後、途中は端折るが(私のこの雑ブログ、元はと言えば『おくのほそ道』の追っかけから始まった。原則、芭蕉と曽良の主従二人が行動した日と同日に、その追っかけ記を記した。一日2、3000字、時には4、5000字を要して。それ故)、宮城野から塩竈、松島を経て石巻へ行き、さらに平泉へと足を伸ばしている。
さて、松島での司馬遼太郎である。
当然のこと、芭蕉について多くの文言を費やしている。

<・・・・・松島で情けなくおもうのは、・・・・・芭蕉作という俳句である。  
    松島や ああ松島や 松島や
落語の大家さんが、熊公を前にして作りそうな句で、おそらく、江戸期のたれであったか、明月のうつくしさに打たれて「名月や ああ名月や 名月や」と詠んだという噺のような句に、この「松島や」は踏まえられているのであろう。芭蕉もたまったものではない>、と司馬遼太郎は記す。
さらにその少し後、シバリョウ、こうも記している。
<・・・・・。そういう芭蕉が、
   松島や ああ松島や 松島や
などとノンキなトウサンのような句をつくるだろうか>、とも。
司馬遼太郎、珍しく感情的になっている。シバリョウ、怒っているんだ。
<芭蕉は、日本文学史上第一等の詩人であることは、大多数のひとびとが認めるであろう>、と記す司馬遼太郎、落語の大家さんが熊公を前にして作ったり、ノーテンキなトウサンのような句が、芭蕉の作とされている松島の地に対し、怒っている。
余談が長くなった。
今の松島海岸へ戻る。

海辺に近く、こういうものが立っている。
<地震だ! 津波だ! すぐ非難!>。

こういうものも。
一目で解かる。
が、400メーターか。キツイな。

ところで、あの日、松島港のこのあたり、2.41m、2.79mの津波が襲った。

観光レストハウスの中に、このような掲示がある。
人の背丈より少し上まで津波がきた。

松島復興ギャラリーのすぐ横。

ここまで。

2011年3月11日、津波に襲われた後と現在の姿とを比較した写真。
これは、レストハウスの裏。

松島海岸駅前。

45号線。

渡月橋。

キャプションの天地左右が違うが。
この後、瑞巌寺へ向かう。