三陸沿岸紀行(21) 石巻。

駅を出たところにも、さまざまなマンガがあったが、すぐホテルへ。歩いて6、7分の石巻グランドホテル、石巻では一番大きなホテル。すぐ分かる。
チェックイン後、1時間ばかりベッドでひっくり返っていた。が、夕飯も食わなきゃならないし、駅の周りのマンガも撮らなきゃ、と思い駅の方へと出る。

駅前の通りにこれが立っていた。
台座には、「サイボーグ009」と記されていた。

駅へ。

あちこちマンガがいっぱい描かれている。

駅入口の上にも。

さらに、その上にも立体が。

入口の前にも。

ホームへの改札の横にも。

コインロッカーにも。

ここにも。

ここにも。
「がんばろう! 石巻」。あの日、石巻も津波に襲われた。

仙石線に、マンガッタンライナーというのが走っているらしい。

駅前のビルのウインドウにも。
すぐ近くの居酒屋へ入り、鯨のみそ焼きや近場で取れた牡蠣焼きなどで少し飲む。駅前ということもあろうか、案外客が入っていた。
この前、まだ開いていた駅の売店の新聞スタンドには、その日の新聞、石巻日日新聞だけが残っていた。

石巻日日新聞、6ページ建ての新聞である。
その内、「今晩のTVガイド」と「明日のTVガイド」で2ページを取っている。残るは4ページのみ、という新聞。ローカルペーパー中のローカルペーパー、と言えるだろう。しかし、地域密着型の新聞は、それはそれで面白い。
一面トップは、石巻の高校生の話題だが、その左には、<復興へ心震わす大輪>、とある。<舞でみせた地域の力>、との文言も。
石巻川開き祭りの記事である。
花火や大漁踊りの写真も掲載されている。記事には、<JR仙石線が全線再開した今年の来場者は、2日間で22万6500人(実行委発表)>、とも記されている。相当なものだな。

ホテルのレターセットや宿泊約款などが入っているファイルに、ビニールコーティングされたこの紙片があった。
「もしもその時」と記されている。
石巻グランドホテル支配人からの書状。
<私たちは2011年3月11日東日本大震災をホテル内で体験いたしました>、<大震災の際には、1階ロビーは60cmほどの浸水になりました>、などと記され、<緊急事態になった場合、・・・・・>、と記されている。幾つもの留意点が。
石巻グランドホテル支配人の言葉、宿泊客に安心感を与える。石巻では、という矜持を感じる。



東京湾に泊まったアメリカの戦艦・ミズーリ号で、日本が、連合国との降伏文書に調印してから70年になるんだ。日本の全権大使は、モーニングにシルクハット、杖をついた重光葵であったことを思いだす。写真で見知っていることなんだが。
法的には、この日が日本の敗戦日となるんだな。8月15日ではなく。
中国は、その翌日、9月3日を戦勝記念日としている。
今日、中国が、北京で「抗日戦勝70年式典」を催した。天安門前広場で。
日本は辛い。
1937年7月7日の盧溝橋事件以来、いや、それ以前から日本が中国を侵略したのは事実であるし、1945年、連合国に敗れたのも事実であるし。
習近平、天安門前でオープンカーに乗り、閲兵していた。「同志たち、ご苦労さま」、と言いながら。このような場合のお決まりの姿、グレーの中山服で。
中国、アメリカへ、日本へ、台湾へ、そして世界へ、幾つものメッセージを発していた。軍事の面での。
射程1万5000キロ、アメリカ全土が、というミサイルだとか、空母キラーのミサイルだとか、といった軍事パレード、軍事大国を目指す習近平の胸の内が透けて見えるもの。
それと共に、天安門前広場での軍事パレード、国内向けの要素もあろう。
中国経済のバブルが弾ける、いや、弾けた、と言った場での、中国国内の皆さま方への。
それにしても、今日の北京、真っ青な青空、「北京秋天」であった。何日も前からの締め付けが功を奏した、と言っていい。
しかし、梅原龍三郎の≪北京秋天≫の青空の下の天壇、今日の北京では、戦車やミサイルに変わっていた。
梅原が描く「北京秋天」ではなかった。