三陸沿岸紀行(22) 石巻(続き)。

石巻は、宮城県である。そして、宮城県を代表する新聞は、河北新報である。

8月4日付け河北新報朝刊。
一面トップは、仙台第1合同庁舎関係の記事であるが、その横には竿灯の写真が。<秋田・竿灯まつり開幕>、との見出しがある。仙台に本拠を置く河北新報、宮城県の県紙ではあるが、東北6県をカバーするブロック紙でもある。
石巻グランドホテルのチェックアウトタイムは11時。それまで、北上川の中州にある「石ノ森萬画館」へ行く。歩いて10分足らず。
歩きだすと、道のあちこちに石ノ森章太郎のマンガのキャラクターやその関連のものが現われる。

あいプラザ石巻という建物の前に仮面ライダーがいる。

石巻商工会議所の前にも。

近寄る。
台座には、秘密戦隊ゴレンジャー、と記されていた。

入口の横に、こういう言葉が張り出されている建物があった。
読むことができる、と思う。

北上川の中州にある「石ノ森萬画館」までの道筋、「いしのまきマンガロード」と名づけられている。
道の両側には、マンガの幟。

「マンガ家ギャラリィ」というものがあった。石造りの中に、多くの漫画家の作品がパックされている。
その世界に疎い私が知る作家だけでも、つのだじろう、北見けんいち、矢口高雄、モンキー・パンチ、松本零士、里中満智子、赤塚不二夫、バロン吉元、ちばてつや、水木しげる、古谷三敏、さいとう・たかを、やなせたかし、永井豪、竹宮恵子、水島新司、と豪勢なラインナップ。

マンホールの蓋にも、石ノ森萬画館の姿が。

向こうの車が停まっている少し先が、北上川。

北上川に架かる橋のすぐ手前の家。
あの日の津波にはかろうじて耐えたが、今もその時のまま、といった佇まい。

北上川の中州に建つ石ノ森萬画館が見えてきた。宇宙船をイメージしたものらしい。

石ノ森萬画館が建つ中瀬、と呼ばれている中洲へ北上川を渡る。
この前方は、石巻港の内港である。
<その石巻の野に北上川が北から南へ貫通していて、そのまま河口を南にひらき、帆船時代には絶好の河口港を形成していた>(司馬遼太郎著『街道をゆく26 仙台・石巻』 朝日文庫新装版 2009年刊)。
司馬遼太郎は、昭和60年2月末、石巻を歩いている。
司馬遼太郎が語る石巻の北上川について、前記の文庫本から引いてみよう。
<江戸期、石巻湊の存在は、かがやかしいものだった。仙台藩領の米は主としてここから積みだされ、また諸国の船舶がここに寄港し、奥州第一の商港とされた>、と。
そうか、勉強になるな。それよりも司馬遼太郎の文章、心地よい。もう少し、引くことにしよう。
<その象徴として廻船がある。千石船の船乗りたちがうたった唄に、
   三十五反の帆をあげて
   行くよ仙台石巻
という詞があるが、石巻という地名は、そういう時代の象徴であり、たれもが豪儀な印象をもった>、とシバリョウは記す。
しか〜し、その少し後、こういうことが出てくる。
<港としての石巻は、江戸以前には存在していなかった。河口もなかった。この川も、港も、伊達政宗がつくった>、と。石巻には港はなかったんだ。
それまでの北上川の河口は船舶を泊めにくい。で、新河道がつけられないか、と政宗は考えたそうだ。それを担ったのが、関ヶ原の役の後、毛利家をリストラされて東北の地へ流れてきた川村孫兵衛重吉なる男。川村孫兵衛は、7年をついやして北上川の新河道を完成させたそうだ。
石巻の河口港が誕生した。
しかし、今、北上川河口港には中洲がある。石ノ森萬画館が建っているのも、その中洲。
<これは孫兵衛が築いたものではない。孫兵衛よりずっとあと、石巻港が殷賑をきわめるようになった宝暦年間(1751〜64)、谷新平(所伝不詳)なる人が、繋船の便を供するために築いたものとされている。が、谷新平の技倆が大いに落ちることは、この中洲ができたために水勢が大いにゆるやかになり、このため河口に泥が溜まって水深が浅くなってしまったことでもわかる>、と司馬遼太郎は前掲書で記す。
中洲、あの日、酷いこととなった。
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2011年3月11日の石巻の中瀬、5.85mの津波に襲われた。
石ノ森萬画館もまさに。


エンブレム問題のゴタゴタで、日本も大したことないじゃんってことで、インドネシアの高速鉄道の受注競争、中国に敗れるんじゃないかと思っていたが、日中双方とも不採用、となった。
インドネシアの大統領、日中いずれの手も上げたくない、と考えたのであろう。
しかしそれよりも、高速鉄道など必要ない、中速鉄道で充分、との判断があってのものであろう。ジャカルタからバンドン、たった14、5分のためにコストが3〜40%も違うのならば、と。
正解だよ。