6月4日 がん研と天安門。

「ペットCTと言うものがあります。それをやってみましょう」、と医者が言った。この春以降、通っている病院でいろいろやっていたが、最終的にペットCTを、となった。
後で知ったのだが、ペットCTというものは東京の通常の大学病院でもその設備がないものだそうだ。私が住む千葉県では二か所のみらしい。
で、今日、通院している病院から指定された国立がん研究センター東病院へ行った。築地の国立がん研の分院である。
今までさまざまな病院へ行っているが、初めて行くがん研の病院はやはり少し違った。正面入口から入ると、羽田や成田とははるかに異なるが、地方空港のエントランスのようであった。カウンターが並び、待合のイスも柔らかい。何より、前列との間隔が広い。上を見ると渡り廊下が走っている。私が通った病院で一番大きな病院は慶應病院であるが、その印象、ずいぶん違う。
さまざまな放射線治療の部屋の他、陽子線治療棟なんてものもある。たしか、なかにし礼が受けたものじゃないだろうか、と思う。病院内にあった掲示によると、スパーンは忘れたが288万強の料金であった。もちろん、自費診療。我ら庶民は二の足を踏むな。
ペットCT、PET-CT自体は通常のCTとさほど変わらないものであったが、そこに至るまではやや大袈裟なものであった。ごく微量の放射性物質を血管に入れ、それが全身に行きわたるまで待つ、ということもあった。料金は通常のCTに較べ一桁違う。が、保険が効く。
検査が終わった後、飯を食おうと9階のレストランへ行った。慶應病院のレストランは、今は帝国ホテルの系列が運営している。がん研のレストランは、ホテルオークラか精養軒あたりが入っているのかと思っていたら、何と学食のようなレストランであった。600円ばかりの今日のランチは3種類すべて売り切れていた。580円のごくあたりまえのカレーライスをたのんだ。半分ばかり食った。
その後、コーヒー屋で休み、少し飲んで帰ってきた。
今年、2019年の6月4日である。


30年前の1989年6月4日、天安門事件が起こった。
中国政権は武力を用いて鎮圧した。多くの人が死んだ。
天安門事件を主導した王丹やウーアルカイシたちは、その後亡命した。主にアメリカに。逆に事件の時アメリカにいた劉暁波は、この事件の後中国へ帰り国内で戦う。が、中国政権から弾圧を受ける。拘束される。その後、ノーベル平和賞が授与される。
共産党独裁の中国政府、一貫して天安門事件の収束は正しいことであった、と言っている。
無理に無理を重ねるその論理、どこまで持つのであろうか。
天安門事件のあった翌年の1990年6月4日、香港にいた。たまたま3、4日の間、観光に、遊びに行っていた。
九龍のチャムサチョイから香港島へ渡るスターフェリーの桟橋近くに、前年の天安門事件に抗議する団体がいた。カンパを募り、署名活動を行っている。
何がしかのものをカンパした。と、署名してくれ、と言われた。一瞬、逡巡した。
私は日本の傀儡国家・旧満州の生まれである。現在の中国東北部。いつか中国へ行きたい、と考えていた。
今、反中国の運動に署名することは、将来中国へ行く場合、何らかのことを及ぼすのではないか、と。で、ぐじゃぐじゃと判読できないように署名した。
私はその翌年の1991年、「異形細胞が見つかりました。あなたは運がいい。ごく初期です」、と言われ胃を切った。
その翌年の1992年、初めて北京へ行った。天安門から延びる長安街通りすぐの北京飯店に泊まっていた。手術翌年であったので、一日の半分くらいは北京飯店のベッドにひっくり返っていた。天安門広場には多くの警官がいたが、天安門事件のことは覆い隠されていた。
それから30年近く経った今日の天安門広場もものものしい警戒が行われているそうだ。
共産党独裁の中国、あくまでも天安門事件を覆い隠し通している。
今の中国、アメリカに次ぐ経済大国となった。さらにアメリカに対抗する軍事大国になろうとしている。しかし、現実とかけ離れた共産党独裁政権、いつまで続くのか、と思うことしきりである。
その後、中国には北京オリンピックの前年までの15、6年の間に7回行った。しかし、その後は行かなくなった。チベット問題などがあったから。
それにしても中国という国、いつまで共産党独裁の国を続けられるのであろうか。30年前の天安門事件を、いつまで覆い隠せるのであろうか。


今日、6月4日、たまたまではあるが、がん研と天安門の6月4日を考える。