三陸沿岸紀行(14) 三陸鉄道南リアス線。

ホテル・フォルクローロは、JRの駅の上に建っている。3年半前、遠野で泊まったホテル・フォルクローロは、朝カーテンを開けるとすぐ目の前にJRのホームがあった。

翌朝、釜石のフォルクローロのカーテンを開けると、目の前にはこれが見えた。新日鐵住金の釜石製鐵所。
3年半前の2012年1月、この前の道路の10メートル程左のバス停から、盛行きのバスに乗ったことを思いだす。早朝6時半すぎ、周りは雪の中に沈んでいた。乗客は私を含め4人であった。
なお、先述したが、この日テレビを点けると「あまちゃん」をやっていた。しかし、翌日の朝、石巻のホテルで同じ頃テレビを点けたが、「あまちゃん」は流れなかった。石巻は宮城県。どうもNHK、岩手県限定で「あまちゃん」を放映しているらしい。

この日の「岩手日報」。
一面トップは、昨日と同じく高校総体での岩手勢の活躍の様。
が、中面を見て驚いた。

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宇部貞宏さん、岩手県の建設業界の重鎮であったのだろう。建設関連企業はもちろん、商工会議所、銀行、テレビ局、中尊寺や毛越寺の名も見える。
県紙でなければあり得ないもの。驚いた。

朝飯を食った後、JRのすぐ隣り、三陸鉄道釜石駅へ。
<走り続けろ・・・三鉄魂 復活するぞ・・・釜石魂>、の幟。
ラグビーボールのオブジェがある。三鉄の応援団、三鉄に寄付をした人の名が記されている。
釜石、北の巨人・釜石。新日鉄釜石のラグビーだ。

三鉄釜石駅の入口。
釜石、2019年のラグビーW杯の開催地12都市のひとつに選ばれた。当然である。
赤い線も忘れちゃいけない。
あの日、ここまで津波がきた。

三陸鉄道南リアス線、盛行きの時刻表。
期間限定も入れれば、一日に10本もある。3年半前、三鉄は動いていなかった。盛までは、かろうじてバスのみ。それも一日2便であった。よくぞここまで。

盛行きの電車。AEONのワッペンもある。
どういうワケか、この電車の前に三鉄の人が3人いた。その人、こう言った。
「この車両は、大震災を唯一生き残った車両です」、と。
なんでも三陸鉄道南リアス線には、4両の電車があったそうだ。その内の3両は、あの大震災で水に浸かり、廃車となったそうだ。で、1両のみが残った。この車両が。
何故か。
あの時、この車両はトンネルの中にいた。吉浜と唐丹の間の全長3906メートルの鍬台トンネルの中に。
その車両を生き延びさせるには、という三鉄社員の奮闘物語がある。が、今日は夕刻から「最近は赤ワインで」、と言う人に御馳走になりフラフラ。横道には入らないことにする。

釜石を発つて少しの所。
左上方が、前日雷雨に襲われた旧魚市場のあった辺り。

平田の近く、まだ釜石湾である。
このあたりはあの日、9.39m、9.91mの津波に襲われた。まだまだ復興途上だな。

三陸沿岸、リアス式海岸である。特に、三鉄南リアス線沿線には、小さな湾というか入り江が連続する。入り江とトンネルが交互に現われる。
上の写真、運転手は左の男である。が、どういうことか、右にいる2人の男も三鉄の社員である。
前方はトンネル。

吉浜湾に面した吉浜の近く。
吉浜、アワビの産地。台湾や中国へも輸出している、とのアナウンスが流れた。
しかし、吉浜にはあの日、17.02m、17.43mの津波が襲っている。

三陸を出て少し経った所。
土を積み重ねている。

甫嶺の近く。
ここには、14.46mの津波が襲った。

こういう看板が、車窓を飛び去った。
<次世代へつなげ。ふんばれ!ほれい>。

恋し浜で3分間停車した。
恋し浜ホタテデッキというホームに、このようなものがある。

扉を開けると、夥しい数のホタテ絵馬。

<1985年に地域住民の熱い要望が叶い、三陸鉄道「小石浜駅」が誕生した際、・・・・・>、という短歌。
「恋し浜」、2009年までは「小石浜」であった、という。

恋し浜、眼下の浜を見る。
ここにはあの日、16.17m、16.26mの津波が襲っていた。

陸前赤崎を出てすぐ。
先に見えているのは大船渡湾。
盛は、もうすぐ。

三鉄南リアス線の終点・盛。