クリックミスと強権体制。

稀にではあるが、クリックミスをしてしまう。うっかりミスではあるが、打った文章が一瞬のうちに消えてしまう。
一昨日がそうであった。
取りこんだ写真それぞれに文章を記した。合計、5、60行程度であったろうか。すべて打ち終わり、最後にクリックをミスった。保存をしないうちにログアウトをクリックしてしまった。打った文章がなくなった。そうなると、再び打ち直す気力はなくなる。そのまま寝ちゃった。
昨日は飲み会があったが、その後打ち直そうかと思っていた。が、飲み会が跳ねた後、何と20数年ぶりという人に偶然行きあった。そんなこともあるもんだってことになった。
で、今日になった。が、もう打ち直しはしない。一昨日の写真の概略のみを駆け足で記す。
近鉄難波から15、6分で八戸ノ里へ。駅から司馬遼太郎記念館まで私の足でも10分ばかり。道路に道しるべも記されている。だから、4時前には司馬遼太郎記念館へ着いた。
シバリョウの記念館、そう大きなものではない。もともと司馬遼太郎が住んでいたところであるから。庭を通り記念館へと誘われる。司馬遼太郎、雑木や何でもない草などが好きだったそうで、庭にはそのような草木がある。
途中に司馬遼太郎の書斎があり、ガラス越しに見ることができる。司馬遼太郎自筆の花供養碑の横には、何でもないごく普通の日常空間がある。
それらを通って、隣接地に造られた安藤忠雄設計になる司馬遼太郎記念館へとなる。館内へのアプローチは円弧状の通路によって。記念館自体は、いかにも安藤忠雄だなー、というコンクリートとガラス。その人工物がシバリョウ自宅庭の草木といった自然物と融合している。
記念館の内部は撮影が許されていない。で、前回訪れた折りに求めた図録から何枚かを複写する。
前回は、2006年11月10日に訪れている。10年少し前である。11月ということもあろうか、枯葉が3枚挟んであった。それを図録の表紙に乗せて撮った。
司馬遼太郎記念財団理事長・福田みどりの「ごあいさつ」がある。芭蕉の『奥の細道』と共に日本の二大国民的紀行、と私が考える『街道をゆく』の書き出しがある。小学6年生たちに送ったというか遺した『二十一世紀に生きる君たちへ』の冒頭。いずれもディスプレーを拡げて読んでください。安藤忠雄による書斎のスケッチも複写した。
司馬遼太郎、書斎、廊下、書庫、その他に約6万冊の蔵書を有していたそうだ。そのイメージを安藤忠雄は記念館に大きな書架を作り、約2万冊を詰めこんだ。地下1階、地上2階、3層吹き抜けの大書架は高さ11メートルに及ぶ。
何年か前、iPS細胞でノーベル賞を取った山中伸弥教授は京大の教授であったが、研究室の人たちは「東大阪のおっちゃんや」と言っていた。東大阪、コテコテの大阪の一画をなす。日本国民の先生役を担った知の人・司馬遼太郎も八戸ノ里、東大阪のコテコテを愛していたようだ。面白い。
司馬遼太郎記念館を5時ごろに出て京都へ行った。
京都の駅ビルを出ると、雨が降っていた。嬉しかった。いいぞー。九州や山陰では大雨が降っていたが、関東や関西はろくに雨が降らなかったので。梅雨のこの時季、京都で苔を見ようと思っていた私にとっては、雨は嬉しい。
五條烏丸のホテルに入り、暫らくはベッドでひっくり返っていた。その内、腹が減ってきた。夕飯を食わなきゃならない。前日の夕飯は大阪ミナミでこの時季旬の鱧鍋を食った。だから、この日は何でもいい。駅ビルの上の食堂街へ行った。



一昨日最後の写真は、ホテルへ戻った後のNHKの画面である。
この日、日本の社会現象となっていた藤井聡太四段の快進撃が止まった。30連勝はならなかった。
それにしても14歳の藤井四段、日本中の人々を引きつけた。物語を作った。まるでプロレスのベビーフェイスである。で、藤井四段の対戦相手はみなヒール。そういう構図ができあがった。
藤井四段の対戦相手になんの恨みもないが、ベビーフェイスとヒール、そういう役回りなんだ。だから面白い。
この日、7月2日は東京都議選の日でもあった。NHK、開票速報をしている。
小池百合子が自民党をボコボコにしていた。
驕れる自民党に鉄槌が下る、といえばそうではあるが、自民党をボコボコにした小池百合子の勝利、これこそポピュリズムの極み、と言わざるを得ない。
文章は同じではないが、一昨日、クリックミスで消えてしまった文章、このようなことを記した。



今日は、あとひとつ記しておかなければならないことがある。
昨日、劉暁波が死んだ。
劉暁波のことを知らない中国人が多いことに驚く。中国、劉暁波のことを国民の目から完全に遮断してきた。その死に関しても、厳しい情報管制をしいている。
共産党一党独裁の政治体制に疑問を投げかける者は、徹底的に押さえつけようとする。圧制であり、強権体制極まれり、という現在の中国。情けない国である。
何が経済大国だ。一帯一路がなんぼのものじゃ。金さえ儲ければいいのか。何が共産党一党独裁なんだ。
共産主義も資本主義も、共に臍で茶を沸かすよ。
それにしてもだ。中国が劉暁波に関する情報を遮断しているのは、強権体制のブラック国家であるから、そうなのか、とまだ分かる。しかし、先進国の首脳の面々、ドイツのメルケルを除いては、皆さん明確なメッセージを発していない。皆さん、曖昧。習近平がそんなに恐いのか。
安倍晋三も、菅義偉の談話のみでスルーしようとしているようだ。情けない。
26、7年前の6月、香港に数日いた。単なる観光で香港にいただけである。スターフェリーの桟橋近くであったと思う。天安門事件の犠牲者を追悼する集会が開かれていた。幾ばくかの寄付ををし、漢字で署名をした。この後、中国へ行く時にはヤバいかな、と思いつつ。確か、天安門事件の1年後のことだったと思う。
天安門事件の指導者、王丹もウーアルカイシも紫玲も、その後は欧米へ亡命した。しかし、天安門事件の前、アメリカから中国へ戻っていた劉暁波は、その後も中国に留まり中国政府との戦いを続けていた。
死を賭して。
そして、昨日死んだ。中国政府の完全なる情報統制の許に。
20年か30年かは分からない。しかし、そう遠くはない何十年か先、中国においても劉暁波が知られる時が来るに違いない。