三陸沿岸紀行(9) 宮古。

三鉄北リアス線で、12時少し過ぎに宮古に着く。小さなリュックをコインロッカーに預け、すぐにタクシーで港へ行く。
運転手には、「宮古港、漁港、魚市場のある所」、と伝える。と、運転手、「今日は日本丸が来ていますよ」、と言う。「日本丸か、写真でしか見たことはないが、まずは漁港、魚市場の方へ」、と応える。
暫らく走ると、「あ、日本丸、ここへ着いているんだ」、と運転手が言う。日本丸の姿、魚市場の少し先にあった。

「帰りも呼びますから」、と電話番号を書いたカードをもらい、桟橋の方へ歩く。

帆はたたんでいるが、写真で知ったる日本丸。

まず、港の奥、魚市場の方へ。

左の長い建物が宮古の魚市場。

魚市場、ひっそりとしている。

魚市場といえば、2年前の秋、熊野の那智大社へ参った翌日の早朝、紀伊勝浦の魚市場へ行ったことを思い出す。マグロが次々とセリにかけられていた。それ以来の魚市場である。
しかし、昼すぎの魚市場、人影もなく閑散としている。この時間だから仕方がないが。

宮古港、穏やかである。

しかし、2011年3月11日のあの日、ここには8.43m、8.69mの津波が襲っていた。

魚市場の方から日本丸を見る。

係の人に訊くと、誰でも乗ることができるという。

右手にこのような横断幕がある。
宮古港、開港400年なんだ。

すぐに乗船できるようだ。
乗った。
「感謝」の文字がある。

若い男が迎えてくれる。
訊けば、東京海洋大学の学生だと言う。

帆は張ってはいないが、大きな帆船だ。

赤い救命ボートが幾つも。

ロープを通して港内が見える。

女子学生も乗っている。
訊けば、今回は東京海洋大学の学生110人が乗っているそうである。その内女性の比率は?と訊いたら、約1割、ということであった。

見学者のおばあちゃんに、ヤシの実を二つに切ったものでデッキ磨きを教えているこのはだしの学生も女の子。元気印の女の子であった。
訊けば、「デッキ磨き始め」、という号令がかかるそうだ。学生は、一斉にヤシの実を二つに切ったものを取り、デッキ磨きを始める、と言う。「男の子も女の子もなく、同じなのか?」、と訊くと、「そうです。男も女もありません。同じです」、と言う。
「そうか。あなたは男の子に負けないだろう」、と言ったら、「ハハッ」と笑っていた。

向こうの方に小さな灯台が見える。

日本丸の上から陸の方を見る。
クレーンのようなものも見える。
日本丸を降り、タクシーを呼ぶ。

駅へ戻るタクシーの中、ここで運転手こう言う。
「まったく、同じ所に同じバンヤを造って」、と。
「バンヤ」って何か分からなかったが、その内に解かった。
「ゴメが啼くからニシンが来るとー」・「石狩挽歌」の「番屋」なんだ。「番屋」、北海道のものだと思っていたが、三陸にもある、ということを知った。
それはともあれ、青いプレートがある。4年半前のあの日、ここまで津波がきた、という印である。
それでも、漁師は、同じ所へ同じ番屋を造ったものとみえる。
何とも言うことができないよ。私たち部外者は。

「アパート巨人荘」というものが、目に入った。
1階は流されて、骨組み以外何もない。2階も人が住んでいる気配はない。4年半経つのに。

閉伊川に沿った道を駅へと戻る。
あの日、このあたりも5メートル前後の津波に襲われていた。