三陸沿岸紀行(13) 釜石。

30分ほどベッドに横になり、5時過ぎにホテルを出、タクシーで港の方へ行く。3年半前、大震災の翌年1月、訪れた港の方へ。

暫らく走ると、このような建物が目についた。
運転手、「あの青いところまで津波がきたんです」、と言う。3階の窓のところである。

望遠で見ると、このような文字が。

3年半前には、まず魚市場のあった所に行った。今回も魚市場の近辺を歩くつもりであった。
「古い魚市場があったのはこのあたりです」、という所でタクシーを降りた。「30分ばかりうろうろします。その後電話をしますので、また来てください」、と言い、電話番号を記した紙片をもらった。
3年半前は真冬、同じような時刻なのだが、すでに真っ暗であった。時間も経っている。しかし、何となくここらあたりだったな、という感じがある。

右の方を見ると、網の張られたしきりの向こうは何やら工事現場のよう。
大きなクレーンがあったり、

さまざまな重機があったり、と。

しかし、だんだん、ここは紛れもなくあの完膚なきまでに叩きのめされた魚市場のあった場所だ、と思えてくる。
3年半前、暗闇に目が慣れてくると、骨組みの鉄骨だけが残った建物、あちこち捲れ上がりひしゃげた建物、凄まじい光景が目に入ってきた。津波の怖ろしさ、凄まじさを肌で、正確には目で知った場所だ。
2011年3月11日、ここには8.14m、9.68mの津波が襲った。

その場が今、更地になり、工事が行なわれている。
実は、この少し前から雨が降り出した。傘はない。でも、濡れてもいいや、と思っていた。
と、後ろの方でクラクションの音がする。先ほど私を降ろし走り去ったタクシーが戻ってきた。私の横で車を止め、「ボロ傘ですがこれを使ってください」、と傘を差しだす。驚いた。車を降りる時、「後で電話をしますから、また来てください」、とは言ったが、これほどのことをしてくれるとは。
ありがたくその傘をお借りした。

網目の間から中を見る。
この日は日曜日、人っ子一人いない。目に入る所、何所にも。

災害復旧工事中の看板がある。
釜石市魚河岸地内は分かるが、<期間 平成26年12月18日〜平成28年3月25日>とは、どういうことであろうか。昨年末までの4年近く、津波で被害を受けた瓦礫処理にかかっていた、ということであろうか。
左の看板は、荷捌き施設(建築主体)工事となっている。魚市場自体の再建工事なのであろうか。請負額28億5千万円余と記されている。
発注者は、岩手県及び釜石市の水産部。
タクシー運転手の話では、魚市場はいずれここへ戻ってくるようだとのことであった。しかし、それにしても、遅い。

廻りこんで中の方への道を行く。
と、こういう看板が現われる。

釜石湾の方を見る。

しきりの中には入らないが、道となっている所は歩く。

と、いきなり空がピカーと光り、ドーンという音が轟く。雷・カミナリだ。
ピカー、ドーン。ピカー、ドーン。その内ピカッ、ドドン、光りと音の間が近くなる。恐い、怖い。
周りには誰もいない。何もない。高いクレーンが幾つもあるが、それがいいのか悪いのか、なんてことも考える。ヒョッとしたら、オレ、ここで感電死するんじゃないか、なんていうことも頭をよぎった。恐かった。

タクシーの運転手へ電話し、早く来てくれ、と頼み、元の道の方へ戻った。

タクシーが戻ってくるまでは永かった。現実の時間は分からない。しかし、感覚としては、とても永く感じられる時間であった。
戻ってきたタクシーに乗ったとたん、オレ、死ななかったな、と改めて思った。
ジジイになるにつれ、この頃は、だんだん恐くなることが少なくなっていく。大抵のこと、恐くなくなっていく。しかし、この時ばかりは、恐かった。

この状況ではいたし方ない、ホテルへ戻ってもらう。
しかし、その内、バチッ、バチッっという音が聴こえだした。
運転手、「雹だ」、と言う。

雨も酷くなってきたが、それよりも雹が凄い。バチッ、バチッと車の屋根やボンネットに当たる。
運転手、「すみませんが、あそこで少し車を止めさせていただきます。メーターも止めます」、と言って銀行の屋根のついた車寄せに止めた。車を止めた運転手、車の屋根を見ていた。雹で傷がついていないか、と。よくは分からなかったようだ。

銀行の車寄せに一時避難している先客がいた。その人、「こんな雹だよ」、と言って近くの雹を掴み、コンクリの床に置いた。
それが、これ。真ん中の白く見えるもの。
先客が手で掴んだので少し溶けているが、恐らく1センチ近くあったのではないか、と思われる雹である。
暫らく後、ホテルへ戻る。この日の雨は、降ったり止んだり。

30分ばかりベッドに横になり、この日の岩手日報を見る。1面トップは、全国高校総体で岩手勢が金を2個取った、とのニュース。次いではこの時季、お祭りだ。盛岡さんさ踊り開幕ニュース。<大群舞 宵彩る>、と。

ホテル・フォルクローロは、基本としては夕食は付かない。英国式のB&Bである。ホテルのフロントに、「夕食は何処で。お薦めは」、と訊いた。
少し先の復興ハウスがどうでしょうか、と言って「釜石はまゆり飲食店街MAP」をくれた。
7時すぎ、雨が止むのを待ち、行った。
「呑ん兵衛横丁」とある。
思い出した。今のNHKの9時のニュースのキャスターはあまり動かないが、先代キャスターの大越健介は四六時中スタジオを出ていた。この呑ん兵衛横丁にも何度も来ていた。
呑ん兵衛横丁、表からの3、4軒は中から声が聴こえてくる。
が、その他は、灯かりはついているものの、静まり返っている。その中の一軒に入る。

店内は3、4坪程度であろうか。カウンターの中には年配の女将。カウンターの外には黒い丸椅子が6つ。もちろん、客は誰もいない。
雨が降ったり止んだりしていた。肌寒い感じでもあった。熱燗をたのんだ。
「マグロの刺身を」と言ったら、今日はない、と言う。「ウニはいかがでしょう」、と。三陸沿岸、ウニ街道ではあるが、私は、ウニなどというものは、たまに食べるものだと思っている。毎日食っても美味くはない。「焼き魚は」、と言うと、「何々が」、と言う。それを頼む。ししゃもに似た細っこい魚であった。「煮物は」、と訊くと、「今日は煮物はありません」、とのこと。しかし、「すき焼きならできます」、と言う。頼む。手際良く調理したすき焼き、美味かった。
この後、頼んだわけではないが、料理が2、3品出てきた。ミョウガと何だったかの野菜とイカを醤油に漬けたものなど、絶品、美味かった。
最後に少しご飯を食べようかと思い、「ご飯を少し」、と言った。「今日はご飯はありませんが、レトルトでよろしければ買ってきます」、と言い、雨の中コンビニへ駈け出していく。
雨の日曜日である。客など来るわけがない。この夜の客は私一人であろう。
そこそこの勘定であったが、雨の中ご飯を買いに行ってくれたことなどを思うと、当然、納得である。一日店を開け、これだけの稼ぎじゃ申しわけないな、との思いしきり。
夕刻には、オレ、ヒョッとしたら死んじゃうんじゃないか、なんてことを思いながら、夜には、熱燗で一杯なんてやっている。
これでOK、なんだよな。