三陸沿岸紀行(8) 三陸鉄道北リアス線。
三鉄北リアス線で宮古へ。
久慈10時35分発。
宮古まで約1時間40分。
久慈を出てから15分ぐらい経ったころ、陸中野田を過ぎたあたりにこのようなものが。
ほどなく車窓には、このようなものが現われる。
海岸線に高い壁、防潮堤を造っている。
それにしてもこのあたりは、あの4年半前の3月11日、17.68mとか28.18mという驚くべき津波が遡上しているところである。
三鉄北リアス線の線路も流された。
大掛かりな工事をしているが、はたしてこんなもので防ぐことができるのか、とも思う。
数分後、野田玉川に着く。
駅近辺のあの日の津波の遡上高は、24.83mとか28.86m。驚く。
野田玉川を出て暫らくすると、高い橋の上で電車は徐行する。眼下にはこのような光景が。
右上の方には、小さな港が。
このあたりのあの日の津波の遡上高は、23.73m。
トンネルが多くなる。
三陸だ。
三鉄北リアス線、堀内駅で「2分間停車します」というアナウンスが流れる。写真タイムなんだ。何人かの人が急いで降りる。私も降りた。
三鉄、徐行運転をしたり写真タイムを設けたり、顧客サービスに務めている。観光客、さほど乗っているワケじゃないのだが。
乗ってきた電車の頭には、「AEON」と書かれていたり「阪急交通社」というプレートがついている。三鉄支援の企業である。企業ばかりじゃなく、三鉄を応援している個人もいる。勝手連的なものもあるようだ。
日本近現代史の研究者・原武史は、半藤一利や保坂正康などより一世代若い昭和史の専門家である。その原武史、鉄道の研究もし、その分野でも著書を持つ。
あの大震災のひと月半ほど後、いてもたってもいられなくなり、復旧していた区間のみ、三陸鉄道に乗りに行ったそうだ。まず盛岡に一泊し、翌日朝早くバスで宮古へ行き、宮古ー小本(片道600円)に乗ったそうだ。
その著『震災と鉄道』(朝日新書、2011年10月刊)には、こういうことも記されている。
<支援のために60万円分、1000枚を購入してきました。帰京後は、大学や取材などで人に会うたびに、この切符を配って、三陸鉄道支援の必要性を訴えました>、とも。
明治学院大学教授の原武史、学生その他会う人ごとに三鉄のキップを配り、三鉄に乗りにいけ乗りにいけって言っていたんだ。全線復旧した三鉄のキップを一枚しか買っていない私、原武史のような大きなことは言えないが、乗りにいけとは言いたいな。
ところで、上の写真で写真を撮っている何人かの人、どうも中国語を話していた。こんなところまで中国人が来ているのか、驚いた。
堀内近辺には小さな港が幾つかある。
大きな看板には、普代村漁業協同組合堀内水産物荷捌施設、と書いてある。
ここで魚を捌いているんだな。
すぐ、こういう港が現われる。
近寄ると、港には小さな船がいっぱい。
陸の上にも、小さな船が。
こういうものが往きすぎる。「カンパネルラ田野畑」、と記されている。
田野畑だけがカンパネルラっていうことじゃなく、三陸のあちこちにカンパネルラやジョバンニがいるってことであろう。ひいては三鉄沿線すべてがイーハトーブ、ということなんだろう。
田野畑の少し先。
やはり、津波の遡上高は、15.97m、19.77m。
ここも。
ここも。
三陸沿岸、重機がどこにも。
久慈→宮古のキップ。
三鉄の座席のファブリックの色調は、良くないな。泥臭い。
車内に描かれている三鉄のキャラクターは、可愛い。
そのデザイン、間違っても佐野研二郎ではない。貧乏会社である三鉄、売れっ子デザイナーでペイメントも高い佐野研二郎に依頼できるワケがない。
それはともあれ、三鉄らしいキャラクターだ。愛嬌がある。心がホコホコとする。