十五年戦争と早稲田。

早稲田では、125という数字は特別な意味を持つ。大隈さんが人生125歳説を唱えたから。
だから、大隈講堂の時計塔の高さは125尺。創立125周年の時に建てられた大隈記念タワーは、その倍の250尺(75.75メートル)。そのタワーの125記念室で、今、2014年度秋季企画展「十五年戦争と早稲田」が催されている。

”15年戦争”、1931年(昭和6年)の満洲事変勃発から1945年の敗戦に至るまでの15年。1932年の傀儡国家・満洲国の建国、1937年の盧溝橋事件から泥沼の日中戦争へ、1941年12月8日の真珠湾奇襲から始まる太平洋戦争、そして、1945年8月15日のポツダム宣言受諾による敗戦。
「十五年戦争と早稲田展」、早稲田大学大学史資料センター所蔵の資料が展示されている。本文24ページのコンパクトな図録も用意されている。
その図録プロローグに、こうある。
<・・・・・国家による統制と弾圧がいかに苛烈であったにせよ、大学が”積極的”に国策に追従したことは明らかであり、戦争遂行に果たした責任と、それに対する追及から免れることはできない。・・・・・>、と。
国家の統制、国策に屈した苦い思いを語る。
図録掲載の資料、その幾つかを複写する。

十五年戦争に先立つ1927年1月26日付けの、大山郁夫解職に関する文書。
1927年、日本が三東出兵をした年。早稲田、リベラルな教授・大山郁夫の首を切った。

大山郁夫の「早稲田の學徒に與ふ」(『改造』1927年3月号所収)。
大山郁夫、<私は遂に「早稲田よさらば!」と叫ばなければならなくなった。・・・・・早稲田建学の本旨、「学問の独立、研究の自由、及び学問の活用」の早稲田精神を・・・・・>、と学生に告げる。

1931年の満洲事変、1937年の日中開戦、早稲田でも軍事関連のものが多くなる。
1940年、紀元2600年を祝して学生から作詞を募った。その第一席に選ばれた伊藤寛之の作は、これである。
     蒼穹無限、雲もなく
     神統ニ千六百年
     芙蓉の峰に雪白く
     都の森に血は湧きぬ
     聴けよ、地球の暁の鐘
この文言、今思えばガチガチ枠に嵌まっている。なるほどなー、と。しかし、「紀元は二千六百年」の時にあっては、こうなるんだ。解かる。

1937年11月24日付けの「早稲田大学新聞」。
1937年は盧溝橋事件が起き、泥沼の日中戦争へ突き進んでいった年。それにしても、校庭に戦車と毒瓦斯、プールに駆逐艦、とはどういうことか。
戦時色第一の學藝大會とは。今の早稲田祭のようなものであろう。そこへ、科学部が戦車を作り、化学部が毒瓦斯を作り、工学研究部が駆逐艦を作ったらしい。
早稲田も戦時の波に飲まれていった。

1941年2月11日、紀元節挙式にかんする指示書。

1944年9月19日付け、中野登美雄宛永井柳太郎の書簡。
戦時下の難局における中野登美雄の総長就任に対して、その決断を称賛する永井柳太郎の書。

昭和16年度野営(富士瀧ヶ原)教育計画表。
富士山麓で野営訓練を行なっていた、ということか。

1946年2月21日、教員の解職並びに再任に関する件(京口元吉)、と記された文書。
1941年3月、文学部教授であった京口元吉は、警視庁より講義内容が自由主義的であると指弾を受け”辞職”した。戦後、その京口元吉を再任した時の文書。
図録の「戦時体制と早稲田」には、こういう記述もある。
<一方で大学は、津田左右吉や京口元吉など、自由主義的・反天皇制的とのレッテルを張られた教員に対して、辞職を要求するなど、”学の独立”からは大きく乖離する態度をとることとなった>。
早稲田、戦争へ突き進む国の方策に抗いきれなかった。

津田左右吉もそうである。
津田左右吉も、1940年(昭和15年)のいわゆる”津田事件”により早稲田を追われた。
上は、日本敗戦後、1946年7月の「早稲田大学新聞」。
早稲田の次期総長を選ぶ選挙人会、津田左右吉を選出する。しかし、津田左右吉は固辞する。津田の心、早稲田は”学の独立”を守ったのか、との思いがあったのであろう。

大山郁夫に関してはこう。
1927年、早稲田の教授を解職された大山郁夫、1932年にはアメリカへ亡命、1947年、15年ぶりに帰国する。その後、母校の教壇にも立っている。
早稲田、さまざまな歴史を紡いでいるが、苦い歴史も。