四万六千日(続き)。

お富士さまの植木市にしろ四万六千日のほおずき市にしろ、浅草だー、下町だーって感じるのは、このような情景を見た時である。

白いダボシャツにステテコ、また、藍染めの腹掛股引。
鯔背・いなせだねー。

髪をキリリと引っ詰め、腹掛股引姿のこのお嬢ちゃんたち、あと10年もしない内に、いなせな下町娘となっていることだろう。

広島焼きの屋台。右手の方には、かき氷屋とタコ焼き屋。
<ほおずき屋さんのあいだ、あいだに、綿飴屋、おしんこ細工、あめ細工の屋台が出ているのは、いつもの通り。この日、観音さまに参詣した人には、どういうわけか、四万六千日分のご利益がいただけるそうで、・・・・・>。
以前にも触れた沢村貞子の『私の浅草』の中の「ほおずき市」の一節。

ここでは、枝付きほおずき1000円となっている。枝付きのほおずき、1200円の店もあり、1300円というところもあった。
左の方には、イイダコ、ツブ貝、サザエの文字が見える。

縁日には付きものの金魚すくいも、もちろんある。

吊り忍ぶを扱っている店も。

浅草生まれの浅草育ちである沢村貞子の父親は、<・・・・・歌舞伎の狂言作者になったのだが、・・・・・、下町のおかみさんや娘から、「ちょいと、様子がいいよ」と、騒がれたらしい>(前述の沢村貞子著『私の浅草』)、というモテモテの色男であったそうだ。
少し長くなるが、同書中の「ほおずき市」から引く。
<あれはいくつぐらいだったかしら。まだ、十にはなっていなかったような気がする。珍しく機嫌のいい父に連れられて、この市へ行ったことがあった。行水のあとの首すじに、たっぷり汗知らずを叩いてもらって、私は浮き浮きと父のうしろにくっついて歩いた。・・・・・。買ってもらった小さななぎなたほおずきを、なんとか鳴らそうと、夢中になって、つい立ち止まった私の頭を、父がぽんと叩いた>。
そして、十にもなっていない我が娘に、こう続ける。
<「おい、いまの女みたか いい女だろう」 キョトンとしている私に、「ほら、今あいさつした女だよ、丸髷の色の白い・・・」 あわてて振りむいてのびあがった私の眼に、人ごみの中から、もう一度父のほうへ首をかしげるように会釈した、きれいなおばさんの顔がチラリと見えた。ニヤッとした父は、私の上にかがみこむようにして、ささやいた。 「あの女 おれの女だったんだぜ、今は人の女房だけどな…」 父は、有名な講釈師の名を言った。・・・・・。びっくりして父を見上げた。父はちょっと得意そうに私に眼くばせして、もうスタスタと前を歩いていく。・・・・・>。
十にもならない自分の娘に、女自慢、モテ自慢をする父親、さすがよき時代の狂言作者、さすが浅草の色男ー、と声を掛けたくなってくるよなー。
もちろん、上の写真の如く、今年の四万六千日の道々、そのような色男も粋な女も見かけなかった。

この人は、ひと鉢買ったようだ。

私は、大玉5ヶ入って500円、というものを買った。

お土産だ。
今でも、リビングのドアの把手に引っかかっている。鮮やかな赤い色、色褪せていない。半年やそこらは持つそうである。


その後、長い年月行ってはいるが、このところは年に1〜2回程度しか行かない焼き鳥屋へ行った。昨年の暮以来。
小さな店に入ると、「らっしゃい」、という声がした。
カウンターを挟んだ狭い板場には、中年の夫婦者とその間に、彼らの息子である身体のデカい若い男。「らっしゃい」、という声はそのデカい若い男が発したものであった。少し驚いた。
その身体のデカい若い男、去年の暮れには、ただ黙って焼き鳥を焼いているだけだったから。この半年少しで、身体のデカい若い男、客商売の何たるかを幾ばくかは学んだようである。十何年か前には、時折り店に下りて来ては、小遣いをもらって遊びに行っていたボクが。
あと十何年か後には、恐らくその身体のデカい若い男、嫁をもらい夫婦二人でこの店をやっていることだろう。その時には、親夫婦は、引退だ。
この親夫婦、実直そうな二人故、その後どうするか、という問題にも直面するかもしれない。その親である先代のジイさんは、斗酒なお辞せずの大酒飲みで、四六時中店に下りてきては酒を飲んでいたので、それはそれで有意義な人生であった、と思う。問題は、実直そうな夫婦者の老後である。
いけない。少し酔ったか。私は何を書いているんだ。私が、浅草の焼き鳥屋の実直そうな夫婦者の老後を心配してどうする。それこそ、余計なお世話である。
元はと言えば、和風ギャラリー・ブレーメンハウスでの浅草界隈スケッチ展。それを観に行ったのが、偶々四万六千日のほおずき市にぶつかった。で、四万六千日のほおずき市について記してきた。
しかし、その四万六千日のほおずき市からも、ずいぶん横道に逸れてしまった。
この後、さらに記すと何処へ飛び火するかも分からない。今日は、ここらで終りとする。