浅草 四万六千日(続き×3)。

大黒家別館を出たあと、仲見世をつっきり吾妻橋へ向かう。アサヒビールの「黄金のウンチ」の裏のギャラリーへ。

つくばEX浅草駅地下コンコース壁面には、大正末の吾妻橋の姿もある。
橋の上には都電、いや当時は東京市であるから東京市電も走っている。
吾妻橋の向こう、今、アサヒビールの「黄金のウンチ」のあるあたりに、レンガ造りの大きな建物がある。アサヒビールの工場じゃないかな、と思っていたらそうだった。朝日麦酒(アサヒビール)の吾妻橋工場である。

3日前、四万六千日の吾妻橋。
朝日麦酒の吾妻橋工場は、その屋上に「黄金のウンチ」が乗っかるスーパードライホール(アサヒビール本部)と、屋上が泡立っているアサヒビールタワーとなっている。その隣りには、ご存じ東京スカイツリー。その隣りのハデなビルは、「オイラも忘れてくれるな」という墨田区役所。
川向こう、墨東の地の目立ち屋のそろい踏みだ。
目立つと言えば、すぐ目の前の中国語を話していたギャルも目立っていた。
サングラスにヘソ出しルック。これ以上はヤバい、思いっきり切り刻んだ白いホットパンツ。すれ違う時に目を合わせたら、すごい美形であった。

吾妻橋を渡り、「黄金のウンチ」の下を通り、その裏手のギャラリーへ行く。
実は、和紙の作家・河瀬和世から、「お時間ありましたら」、という案内ハガキをもらっていた。

ギャラリー・アビアント。
「第6回うちわとふうりん展」。

うちわとふうりん、団扇と風鈴。

多くの作家が参加している。

河瀬さんの作品は、ときょろきょろしていたら、どなたをお探しですか、とギャラリーの人から声がかかった。

河瀬和世のうちわ、これであった。
河瀬さんの作品、「白」というイメージがある。だから、黒地に鋭角的な直線が走るこの作品、驚いた。

「河瀬さん、風鈴もありますよ」、とギャラリーの人。

この風鈴は河瀬さんらしい。

ガラスの一部に擦ったような跡がある。下がる短冊もごくシンプル。涼しげだ。

ギャラリーの人、こう語る。
風鈴のガラスは、各作家同じものを使っているそうだ。その同じガラスに各作家、色を塗ったり、どうこうしたり、と工夫する。この暖色で纏めている作家も。
そのガラスは、職人が手作りで作ったものだ、という。そのガラス職人、「今では江戸川区にひとりしかいないそうです」、とギャラリーの女性。
この後、また吾妻橋を渡り、浅草側へ戻る。
雷門から仲見世を通り、浅草寺境内のほうずき市へ。
四万六千日の浅草、ほうずき市を少し歩き、その後、久しぶりであのやきとり屋へ行こう、と考えていた。たまにしか行かないが、板場の中では、そろそろ息子が親父に代わってメーンを張っているのでは、と思っていた。
しかし、腹具合があまり良くない。
やきとりを食ったり酒を飲むなんてことには、ほど遠い状況。やはり、大黒家で食った天丼がよくなかった模様。いや、大黒家が悪いのではない。私の腹に問題がある。
暫らく喫茶店で休むことにした。
浅草には昔ながらの喫茶店が多く残っている。普段は100円か200円の安い店へ行っているが、浅草では昔ながらの喫茶店へ行く。馴染みと言うにはおこがましいが、実は、20年ほど前から行きつけの店がある。そこへ行った。ホットコーヒーを頼み、腹の落ちつきを待つ。
暫らくすると、隣りのテーブルへ私と同年代の女性がついた。ほうずき市の帰りらしい。
ほうずきの鉢植えと長いほうずきの枝を持っている。「その枝は、水につけるのですか?」、と訊いた。「いや、ドライフラワーにするのです。お盆の提灯代わりに」、とその女人は答える。
「東京では7月にお盆を行うようですが、私のところは8月、月遅れのお盆なんです」、と言い、「7月になどしたら、内の人、来ないと思うんです」、と語る。「旦那さん、お亡くなりになられたのですか?」、と訊いたのに、「はい、そうです」、との応え。
その女人、タバコをスパースパーと2本吸い、「お先でございます。ごめんください」、と言って席を立った。私は、「どうも、失礼いたしました」、と応じた。その女人、どういうことをしている人かは、知らない。どこか粋な感じを受けた。
それはそれとし、私の腹具合は一向に改善しない。重い。やきとり屋などとんでもない状況。
仕方ない。帰ることとする。

伝法院通り、灯が入っている。

大黒家本店前には、席が開くのを待つ人が並んでいた。ほうずきの鉢植えを持った人も。
そう言えば、大黒家別館の帳場の横には、明治20年の大黒家本店の写真がかかっていた。大黒家、その歴史は100年を超える。私の腹にはやや問題があるが、それを求める人、引きも切らないんだ。
今年の浅草、四万六千日。