伝えなきゃ。でも、語り部がいなくなる。

8月6日である。

今年の広島原爆忌。

藤森俊希さん、国内ばかりじゃなく海外の人たち、外国の為政者たちにも原爆の惨禍を語り続けている。
1945年8月6日、あの日の状況を語り続けなければならない、と。藤森さん、あの日を体験した最後の世代である。続けなければ、と。しかし、年もとってくる。

広島被団協の理事長・坪井直も89歳である。

8時15分。
1945年(昭和20年)8月15日のその時刻、広島上空へ原爆が投下されたその時刻である。
黙祷。
この女性は、石の柱にかじりついている。

今年の8月6日の広島、久しぶりの雨であった。
広島市長・松井一実、「被爆者の声を聞いてほしい」、と語る。

4人の被爆者の声を語る。

当時、中学生であった人の声も。

世界の為政者に広島・長崎へ来てくれ、とも。

顔が半分しか見えていないが、中央に米国大使・キャロライン・ケネディが見える。
キャロライン・ケネディ、何を思うか。

広島市長・松井一実の言葉を聞く安倍晋三。
その後、「非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を惜しまない」、と語っていたが。

夜のNHKの番組に、この人が出ていた。
元英語教師の松島さん、外国の人たちに英語で広島のあの日の惨状を語っていた、という。しかし、年もとり、自身が癌になったばかりか血液の難病にもなり、今年は記念式典にも参加できなくなった、と語る。しかし、あの日のことを伝えなきゃ、とも。
さまざまな場で、語り部を務めてきた人たち、年を取り、物理的にだんだんその務めを果たせなくなっている。
あの日から69年も経つのだから、それも致し方ない。
NHKの番組では、今、英語で外国の人たちにあの日のことを語れるのは、松島さんとあと一人、二人しかいないそうだ。その一人、松島さんの体調が厳しくなった。
どうするんだ。
こういうことを思い出した。
原民喜の『夏の花』である。
昭和20年8月6日、広島で被爆した原民喜、その日から3日間の、凄まじいありさまを記述している。
この原稿、『近代文学』の佐々木基一の下に送られる。しかし、出版は難しい。原爆がらみ、GHQの検閲が厳しかったのだ。
日本語での出版は、難しい。平野謙がこういう名(迷)案を出したそうだ。
英語に訳し、まずアメリカの雑誌に掲載する。それを日本語に翻訳し、日本での出版にこぎつける、というプラン。
面白いものであるが、終戦直後、そのようなつてもない。
原民喜の『夏の花』が活字化されたのは、1947年(昭和22年)6月号の『三田文学』である。
今、さまざまな書で読める。私は、岩波の文庫本で読んだ。
それはそうとし、翻訳されているのかな、ということが気にかかる。原民喜のこの書、『夏の花』、せめて英語ぐらいには翻訳され出版されていてくれたらいいのに、と。
そう思う。