青もみじ巡り(23) 寂光院(続き)。

書院障壁画の特別公開、別料金を取っているのであるが、その価値は十分にある。

菊の御紋章のついた、この小さな門の内側へ入ることができる。

こういうところである。

杉木立の中を進む。

”御庵室遺蹟”。
<文治元年(1185)長門(ながと)国壇ノ浦の合戦で平家が敗れたあと、建礼門院はひとり助けられて京都に連れ戻され、その年の9月、都を遠く離れた洛北の地大原寂光院に閑居した。本堂の西奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡と伝える場所がある。・・・・・>(『古寺巡礼京都38 寂光院』 平成21年 淡交社刊)。
その場がここ。
夫・高倉天皇と幼子・安徳天皇の菩提を弔う日々。おつきの者は、阿波内侍他数人の侍女のみ。

昨日にも少し触れたが、寂光院の本堂、平成12年5月9日放火され焼失する。バチ当たりな犯人は、未だ捕まっていない。
本堂と共に、本尊・六万体地蔵菩薩立象も焼ける。今、新しく建てられた本堂には、極彩色の六万体地蔵菩薩立象がおわす。しかし、放火され焼けた本尊・六万体地蔵菩薩立象は、黒こげとなり炭化しているが、今、この建物の中に収められている。存在感がある立象である。
焼けた後も、国の重文はそのまま、という。
左手に立つ、黒い服を着た京都造形芸術大学のバイトの学生が、そう説明してくれた。

その顛末、読むことができるのでは。

それはそれとし、建礼門院がらみを進める。
阿波内侍初め建礼門院に従う侍女たちの墓はこちら、との案内がある。

小さな道を隔てた、向うの石段の上の方らしい。

しかし、出入口と思われる木の戸には、このようなことが記されている。
京都・大原・寂光院、山里である。

それよりも、「大原御幸」に触れずして寂光院を後にすることはできない。
寂光院の入口には、このような立札が立っている。
後白河法皇が突然、大原の寂光院を訪れるのである。建礼門院を訪ねる。建礼門院徳子が寂光院へ隠棲してから半年後。文治2年4月のことである。
この立札も含め、後白河法皇の「大原御幸」についての皆さまの記述、「ああそうですか」、というものが多い。すごく無難。
建礼門院は、後白河法皇にとっては息子の嫁である。後白河法皇、傷心の嫁を慰めにきたのであろうか。
中に、「とんでもない」、と言っている人がいる。白洲正子である。「オイ、オイ、そんなことまで言っていいのかよ」、と思われることまで踏みこんでいる。
白洲正子著『古典の細道』(2008年 新潮社刊)に、「大原御幸 建礼門院」という一章がある。
白洲正子の記述を幾つか引こう。
<・・・・・、後白河法皇といえば、時に並ぶもののない一の人である。いかに相手が尼とはいえ、夜をこめての御幸は穏やかでない。時に法皇は六十歳、昔の人としては大変な老人だが、若年から名うての道楽者で、「大天狗」と呼ばれた程の策略家であってみれば、どんな下心があったか知れたものではない>。
さらに、その暫らく後、
<私は何の根拠もなしに、そんな想像をするのではない。平家物語の作者と、それを元に「大原御幸」の能を作曲した世阿弥は、あきらかにそういうものを嗅ぎとっていた。そういうものとは、はっきりいってしまえば、法皇の好き心である。むろんそんなことはおくびにも出さないが、・・・・・、盛りをすぎた女院の色香と、それに対する好奇心が、法皇の眼を通して語られているのだ>、と。
韋駄天のお正、誰もが口にしづらいことにもズバッと切りこむ。
清らかな今上天皇や先帝の昭和天皇、また、雅子さま命の皇太子と異なり、昔の天皇、なかんずく後白河法皇は、生臭い遊び心が横溢した人だったんだ。

時刻はまだ3時半。まだ登ってくる人がいる。雨も降ってくる。
私は、下りる。

それにしても青もみじ、美しい。

来る時には気がつかなかったが、寂光院の門前には柴漬屋がある。
大原の地、柴漬の発祥地でもある。

来る時にもらったカードに電話し、タクシーを待つ。
建礼門院の御陵への石段には、寂光院の枝垂れ桜が覆いかかる。
雨に濡れた瓦が光る。

こちらには、ひとりの老女が枯葉などを掃いて青い容器に納めている。その周りは、青もみじ。
暫らくして車が来る。大原の山里の野や畑の中に身を置くことを放棄したな、という思いは抱きつつ、車の道で大原バス停へ戻る。