青もみじ巡り(22) 寂光院。

宝泉院を出た後、すぐ近くの三千院の前の食堂で昼食。三千院を出る時に行きあった大原女のコスプレ娘二人連れ、パクパクと食事中。「恋に疲れた・・・」、とは対極の元気印であった。
大原バス停へ戻る。

大原バス停まで、あと400メートル。その向うの寂光院までは、さらに1キロ。

小さな橋の上に和傘屋がある。”京の傘”、と書かれている。下を流れるのは呂川。

ンッ、うずくまっている女がひとりいる。

暫くすると、三千院の方へ歩いて行った。「恋に疲れた女」かどうかは不明であるが。
その女人を見送り、大原バス停まで戻ってくる。寂光院までは、あと1キロ。
と、バス停の側にタクシーが一台停まっている。タクシーにしよう。
”他人とは違う。無理せずに”が、私のほっつき歩きの原理原則である。それに、京都のタクシーは安い。初乗りはたしか590円。三角形の二辺を走るような道でも、800円前後であった。

寂光院、建礼門院のお寺でもある。

この階段を上がっていったところに、建礼門院の御陵・お墓がある。

建礼門院の御陵、宮内庁が管轄している。
<みだりに域内に立ち入らぬこと>、と記されている。
当然のこと。
平清盛の娘である建礼門院徳子、高倉天皇の中宮なんだから。しかし、苛酷な運命に翻弄される。
平家の滅亡だ。高倉天皇との間の幼い安徳天皇は、海の藻屑と消えた。しかし、安徳天皇の国母・建礼門院徳子は、源氏の軍船に引きあげられる。
厳しい時間が始まる。

寂光院入口。
菊の御紋章。

六十六段の紅葉坂。

石段の間に間に楓の木。

4月末故、青もみじ。

石段の先に小さな山門。

「御案内」というこれ、読むことができればいいのだが。
こういうことが記されている。
<当院は推古天皇二年に聖徳太子が用明天皇御菩提のため普々天下安穏のためにお建てになったのを開創とする。・・・・・。初代の住職は聖徳太子の御乳人玉照姫である。その後文治元年九月に高倉天皇の皇后建礼門院がお住まいになった。それ以来・・・・・>、ということが。

寂光院、小ぶりな山門の向うに小さなお堂が見える。

寂光院の本堂。
平成12年5月9日、何者かの放火で焼失した後に建てられたもの。

本堂前の「千年の姫小松」。
後ろには、”諸行無常の鐘”。

”千年の姫小松”の由来。
これはお読みいただけるのでは。

書院で特別展が開かれていた。襖絵などの特別公開。
黒い服を着た若者が、たどたどしく説明をしている。訊くと、京都造形芸術大学の学生らしい。でも、絵やデザインをやっている芸大の学生にしては、どこか初々しい。今の学生とは思えない。昨年秋に会った、高野山大学のピュアな学生を思わせる。
京都造形芸術大学に、歴史遺産学科というものがある。おそらくそこの学生であろう。