終わったか。

今日の日本のメディア、イチロー一色。それは当然。
しかし、私にとっての今日は、藤圭子の死。
藤圭子の死は、私に二重の衝撃を与えた。
彼女の死が自死である、ということではない。それは考えられることであったから。
藤圭子の死を伝えるメディアの報道に、違和感を持った。
宇多田ヒカルの母だとか、元夫の前川清のコメントは、ということは出てくる。しかし、そこに石坂まさをの名がほとんどなかった。藤圭子を世に出した、いや、藤圭子と石坂まさを、二人三脚で世に躍り出たその石坂まさをの名が。
実は、石坂まさを、死んでいた。今年3月9日に。今日、初めて知った。
二重の衝撃、このことである。
ここ20年ばかりはヒットに恵まれなかったであろうが、40年数年前にはミリオンセラーを連発していた男である。今、調べると、死の2日後の3月11日、各紙で報じられている。なんと、私は見落としていた。
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     バカだな バカだな だまされちゃって
     夜が冷たい 新宿の女
藤圭子のデヴュー曲『新宿の女』。
作詞:石坂まさを・みずの稔、作曲:石坂まさを。
1969年(昭和44年)、18歳になったばかりの藤圭子、28歳になったばかりの石坂まさを、メガヒットを飛ばした。
その6〜7年後、仕事の関係で石坂まさをとのつき合いが始まった。相手は、ミリオンセラーを幾つも持つ作詞家であり作曲家。私は、一介のサラリーマン。クセのある男であった。私の同僚たちのすべてが敬遠していた。自然、私がつき合った。
石坂まさをからいろいろな人を紹介された。今一歩で大臣に、という自民党の政治家から、何人かのヤクザと思われる人まで。面白い人たちをいっぱい。
石坂まさをとのつき合いは20数年に及んだ。
最後に会ったのは、1999年の10月だった。

1999年10月20日、突然石坂まさをが私の会社へ訪ねてきた。会うのは数年ぶりであった。
このCD『藤圭子 伝説の名曲』と、藤圭子、宇多田ヒカル母子のことを記した書『きずな』を持ってきてくれた。
30分ばかり話した。
その時の模様、その折り記した文字、何とか読んでいただけるのでは。
そのライナーノートに、小西良太郎はこう記している。
<深夜、仲間うちとの酒に酔って、自宅に辿りついたら、石坂まさをが来ていた。珍しく女連れ。細い肩して、薄い胸して・・・と、演歌の主人公みたいな、小柄な娘だった。・・・・・その傍で娘は、なげやりな視線を、茫と、あらぬ方に向けていた。「藤圭子」誕生の前夜である>、と。
サラリーマン生活の後半、従業員100人足らず、年商3〜40億程度、典型的な中小企業の役員を20年近くやった私、とても疲れた。
で、7年前引退した時、ごく一部を除き、仕事上のつき合いのあった人との関係を一切断った。石坂先生とも。
今年3月9日のその死も、見落としていた。

You Tubeの画像。
     赤く咲くのは けしの花
     白く咲くのは 百合の花
     どう咲きゃいいのさ この私
     夢は夜ひらく

     十五、十六、十七と
     私の人生暗かった
     過去はどんなに暗くとも
     夢は夜ひらく

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     一から十まで 馬鹿でした
     馬鹿にゃ未練はないけれど
     忘れられない 奴ばかり
     夢は夜ひらく 夢は夜ひらく
『圭子の夢は夜ひらく』、石坂まさをの代表曲、」今、You Tubeの画像で聴いている。3〜40年前のことごとを思い。
”終わったか”、という言葉が頭に浮かぶ。