ロダンのブロンズ。

10日少し前、川崎重工でクーデターが起こった。企業合併がらみで、合併推進派の社長他3人の役員が解任された。大企業とはいえ、クーデターを起こした側も解任された側も、いわばサラリーマンであろう。しかし、はるか昔は違った。
川崎重工の前身は、川崎造船である。100年ばかり前、その川崎造船の社長は、松方幸次郎という男であった。川崎造船社長の松方幸次郎、今の金にしたら数百億程度の金は、自由に使うことができた。今のサラリーマン社長とは違うんだ。
いや、私の言っていること、良い悪いなんてことは別の話、という前提に立ってのことです、よ。
100年近く前、一企業の社長である男が、今の貨幣単位では数百億程度の金は自由になった、というお話であります。
松方幸次郎、美術品をバンバン買った。松方コレクションである。しかし、日本は第二次世界大戦に敗れた。フランスに残された松方コレクション、差し押さえられた。
返還の折衝が続く。一部が返還されることになる。それを展示する美術館を造ることが条件。ル・コルビュジェ設計の国立西洋美術館が造られ、松方コレクションが帰ってくる。
ロダンのブロンズは、その目玉。

1880年、オーギュスト・ロダン、フランス政府から装飾美術館の門扉の制作を依頼される。オーギュスト・ロダン、ダンテの『神曲』にインスパイアされた構想を錬る。
≪地獄の門≫である。540×390×100cm、というとても大きな彫像である。今、国立西洋美術館の構内に立つ。

その上部。
≪三つの影≫。3人の男性が、と思えるが、一人の男が手を合わせている。時間と空間、反復を表している。その下には、”考える人”の原型が。
実は、これらを含む≪地獄の門≫、ロダンが死ぬ1917年に至っても未完であった。40年近く経っても未完。しかし、どこが未完か、立派に完成している。
彫刻、就中ブロンズは、タブロー、絵画とは異なる。オリジナルが複数存在する。ロダンの≪地獄の門≫のオリジナル、世界に7つある。そうではある。そうではあるが・・・
その≪地獄の門≫の鋳造をを最初に依頼したのは、松方幸次郎であったそうだ。恐らく1918年。この年、松方幸次郎、多くのロダンの作品を購入しているので。
ブルジョアがどうこうの良し悪しは問わず、愉快じゃないか。

≪考える人≫、ロダンは初め、ダンテ像を考えていたらしい。それが”詩人”となり、”考える人”となった。

≪考える人≫の原型は、高さ63cm。これは高さ183cmの拡大版。高さ38cmの小さなものもある。

14世紀半ばから15世紀半ばにかけ、イングランドとフランスの間に百年戦争があった。
カレーの町、イングランドに攻め落とされた。カレーの町の有力者6人、自己を犠牲としてイングランドへ身を捧げた。”カレーの市民”である。
ロダン、1885年、カレー市から依頼を受け制作を続けた。

1895年、カレー市へ引き渡す。しかし、展示法がロダンが思うものとは違う。ロダンが思う高さになったのは、ロダンの死後、1924年であった、という。
今、≪カレーの市民≫のオリジナル、世界に12体ある。
上野の国立西洋美術館にはロダンの作品多くある。パリ、セーヌ左岸にロダン美術館がある。ずいぶん前に行った。
ロダンがアトリエ兼住居としていた大きな建物を、フランス政府に寄贈したもの。庭が広い。≪地獄の門≫、≪考える人≫、≪カレーの市民≫その他ロダンの作品があちこちに点在する。
ロダンの年若き愛人・カミーユ・クローデルの作品を集めた部屋がある。古代ギリシャ、ローマ、エジプトの古美術から、ルノワール、ゴッホ、モネなどの作品のコレクションもある。浮世絵のコレクションも。1906年に初めて会って以来、5年にわたり彫刻だけで58体もの作品のモデルとなった花子の彫像も。
思えばロダン、と言えるかも。