千年の愉楽。

昨日、間違ったことを記した。
最後の2行、バラク・オバマについて、こう書いた。<アフリカの血を受け継いでいる。奴隷の血を引く>、と。
バラク・オバマの父親はケニア人。だから、”アフリカの血を受け継いでいる”はそうである。
しかし、その後の”奴隷の血を引く”は誤りである。細かなことを言えば、白人であるバラク・オバマの母親の遠い先祖の一人に奴隷がいるそうだが、それは本筋から離れたこと。”アフリカ系ではあるが、奴隷の子孫ではない”、と書くのが妥当である。
夜、酔っ払って書いているから、時折り間違える。訂正します。
この7〜80年、いや、この100年、世界を引っ張ってきたトップランナーはアメリカである。
それと共にこうである。
1861年から始まった南北戦争の最中、奴隷解放宣言が為されたのは1862年。150年前である。それまでアフリカから連れてきた黒人を奴隷として、モノとして扱ってきた。人間ではない。モノとして売り買いされ、鎖に繋がれ、持ち主(雇い主ではない)の意のままにされる。
それにしても、そのわずか50年後、20世紀初頭には世界のトップランナーとなるアメリカって、凄まじい国である、と思わざるを得ない。
「ジャンゴ」がらみでの間違った記述に関しては、このくらいにしておこう。そうでないと、次へ進めなくなる。進んでも、酒量が増えて、また間違ったことを書いてしまいそうだから。
一昨日、昨日、オリバー・ストーン、クエンティン・タランティーノと濃い男が続いたが、今日の男も濃い。若松孝二である。

若松孝二、中庸に対して戦いを挑んできた。
向かうところ、こうなる。革命、騒動、差別、性、その他ありきたりでないもの。
若松孝二、昨秋、車にはねられあっけなく死んだ。だから、この『千年の愉楽』、遺作となった。ベネチア国際映画祭の正式招待作品である。

この作品、二枚看板である。
監督は、若松孝二。原作は、中上健次。
<紀州の路地に生を受け、女たちに圧倒的な愉楽を与えながら、命の火を燃やしつくして死んでゆく、美しい中本の男たち。その血の真の尊さを知っているのは、彼らの誕生から死までを見つめ続けた路地の産婆・オリュウノオバだけである>、とチラシにある。
昭和57年、河出書房新社発行の『千年の愉楽』の腰巻・帯には、こうある。
<熊野の山々の迫る紀州最南端の地ーー高貴で不吉な血の宿命を分かつ若者たち・・・・・色事師、荒くれ、野盗、ヤクザ等の生と死を、神話的世界を通して過去・現在・未来に自在に映し出す、新たな物語文学の誕生>、と。付録に吉本隆明の「世界論」抜粋が付いている。
4ページのチラシであるが、吉本隆明の『千年の愉楽』論。
<・・・・・『千年の愉楽』は、誰もが古典近代的な世界からはみだし、逸脱せざるをえないという現在の必然を、いわば<逸脱>から世界の<再産出>にまで転化することによって果たそうとしている>、と吉本隆明は言っている。
新聞の切り抜きが何枚か挟まっている。
中上健次の死のひと月少し前、1992年6月30日の朝日新聞。
<闘病中の中上健次氏に聞く>、という5段記事のタイトルは、「文章は肉体と重なっている」。
「これまで肉体に対して、過剰な自信があった。手入れしなくても、いつまでも健康でいてくれるもんだという」、と中上健次は語っている。しかし、現実はそうではなかった。
その頃、週刊文春誌上で「USA通信」と題するコラムを書いていたピート・ハミルのカミさん・青木冨貴子の切り抜きも挟まれている。タイトルは、「ニューヨークで中上健次さんの死を悼む」。初めて会ったのは、共に初めてのニューヨークだったそうだ。
寄り道ばかりじゃいけないな。なかなか前へ進まない。


中上健次の『千年の愉楽』は、6つの短編からなる。若松孝二は、その中から、『半蔵の鳥』、『六道の辻』、『カンナカムイの翼』を取り出した。半蔵、三好、達男の物語。
高貴にして穢れた中本一統の男として、中上健次の路地の物語として。
重い。