京都町屋 火の用心。

龍谷ミュージアムを出て少し右手の方へ歩くと、すぐにこの通りに行き会う。
西本願寺の真正面の門前町、その名も正面通。

仏具店、念珠店、仏書店、仏具工房などが並ぶ。仏壇、念珠、戸帳、打敷、といった文字が目に入る。
少し先の右手に見えるのは、明治45年(1912年)に竣工した本願寺伝道院である。設計者は、東京帝大教授・伊東忠太。
伊東忠太、建築家として初めて文化勲章を受けた男であるが、築地本願寺の設計者でもある。とても面白い男である。
丁度15年前になる。1997年の秋に東京大学創立120周年記念の「東京大学展」が催された。
第一部 学問のアルケオロジー、第二部 精神のエクスペディシオン、第三部 建築のアヴァンギャルド、第四部 知の解放、といういかにも東大、といったテーマ。
東京大学総合研究博物館での「エクスペディシオンの原風景」の展示の中に、伊東忠太の「野帳と日誌」があった。
若き日の伊東忠太、1903年から1905年にかけ3年3か月に亘り、文字通り世界中を歩いている。そのフィールド・ノートである。数十冊に及ぶそのフィールド・ノート、多くの絵も添えられとても精緻な記録である。驚いた。今も、強く印象に残っている。
その世界歩きの折り、伊東忠太、中国で大谷光瑞の第一次探検隊と会っているんだ。帰国後も大谷光瑞との付き合いは続く。
だから、この本願寺伝道院の設計も。
少し横道に逸れたが、正面通を進む。

このような地番の標識がある。
「下京区 正面通 若宮東入 四本松町」。その下には、大礼服の仁丹のマークも。

堀川通のとっかかりからでも、300メートルもあったであろうか、東本願寺の裏に突き当たる。この辺り、小さな寺が多い。この東本願寺の裏も小さな寺。
下には、赤い消化器とバケツがある。
道案内の立札もある。拡大すると、このよう。

右からでも、左からでも、こう回って行けば、東本願寺まで500メートル。西本願寺へは、後ろの方へ300メートル。京都駅へは、右の方へ500メートル、という。
お気を付けて!!、とも。
親切だ。ありがとさん。
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私は、そこを右に折れ、京都駅の方へ歩く。新町通らしい。
ここには、消化器が3つもある。バケツも。

この家の玄関にも消化器が。

この家の玄関にも。
京都の町屋、道は狭いし木造家屋、火事には弱いだろう。だから、あちこちに消化器がある。
火の用心が大切だ。

記憶が定かでないが、この家の右端に見える赤いものも消化器かもしれない。

少し小ぶりだが、こんな上の方にも。火の用心だ。

少しくすんでいるが、これも消化器だろう。

ここにも消化器。
辰己町っていうんだな。

七条通へ出る手前に、ずいぶん古ぼけた地番表示があった。
近寄って見てみると、「下京区 新町通 七条上ル 辰己町」、となっていた。

七条通へ出、左へ折れ、七条烏丸を右に折れ、京都駅へ向かう。
すぐに目の前には、こういう光景が現れた。
京都タワーが、京都駅のガラスに写っていた。