パリ+リスボン街歩き  (19) 凱旋門へ登る。

70を越える齢となると、幼児帰りをするようだ。今まで登ったこともない凱旋門に登った。今までバカにしていた、高い所に登るのに抵抗がなくなってくる。東京スカイツリーにも何度も見に行っているし。ま、似たようなもの。
今回は、シャルル・ド・ゴール空港から市内へのシャトルバス、モンパルナスへ出たが、今までは、凱旋門の横のカルノ通りまで出るバスに乗ることが多かった。だから、凱旋門はずいぶん見ている。しかし、見るだけ。登ろうなんて思ったこともない。
だが、歳を取ったら考えも変わる。登るのも面白い、と。
凱旋門、ナポレオン・ボナパルトによって造られた。着工は1806年、完成は1836年、ナポレオン・ボナパルトは既にこの世にいなかった。しかし、ナポレオンの軍隊の栄光を称える記念碑であり、今、フランス国の重要行事の場でもある。

凱旋門、高さ50メートルある。大きい。これは、いわば裏側、シャンゼリゼ側でない方から撮ったので、そうとも見えないかもしれないが、堂々としている。
写真右側のスロープから地下道へ入り、凱旋門へ出る。

上のテラスへ出るには、300段ほどの階段を登らなければならない。相当キツイ。キツイが、上のテラスへ出ると、パリの町のあらかた、眼下に広がる。
東の方を見る。正面に真っすぐ延びるこの道はシャンゼリゼ。
シャンゼリゼの先には、オベリスクの立つコンコルド広場があり、チュイルリー庭園につながり、カルーゼル凱旋門からルーヴルまでが、一直線につながっている。シャンゼリゼの突きあたりの凱旋門までを含め、”パリの歴史軸”と呼ぶ。この間、約4〜5キロ。
なお、カルーゼル凱旋門は、ルーヴルの前にあるが、やはり、ナポレオン・ボナパルトが造らせた。着工はシャンゼリゼの先の凱旋門と同じく1806年。完成まで30年かかったシャンゼリゼの凱旋門とは異なり、わずか2年で完成した。しかし、ナポレオン・ボナパルト、こちらの凱旋門は気に入らなかったそうだ。規模がシャンゼリゼの半分しかないので。そうだろうな。

このシャンゼリゼの突きあたりの凱旋門のある広場、以前はエトワール広場と言った。ド・ゴールが死ぬまでは。このこと、第五共和制第2代目の大統領・ポンピドゥーのことを書いた時に触れたから、改めては触れない。
”エトワール”、”星”という意。
この凱旋門からは大きな道が、四方八方、プラス4、都合12本も出ているんだ。だから、それが星型に見えるんだ。だから、エトワール。今は、シャルル・ド・ゴールだが。
12本もの道が一か所につながっているのだから、もちろん、信号はない。つけようがないんだ。どこにでも信号がある日本人ドライバーには、運転しづらいであろう。向こうのドライバーも、ここでは少し気合いを入れている。

北の方を見ると、遠くに少し小高い所がある。モンマルトルの丘である。

望遠を近づけると、サクレ・クールの姿が。

やや南の方を見ると、右の方にエッフェル塔が見える。左の方に少し黒っぽく見える背の高い建物はモンパルナスタワー。
パリの町中、あとはさほど高い建物はない。厳格に規制されている。東京など日本の町とは、大いに違う。だから、美しい。

西の方を見る。凱旋門を挟み、シャンゼリゼと真反対の方だ。
その突きあたりに、薄くではあるが、何やらパリらしからぬビル街が見えている。ラ・デファンスのビル街である。

カメラを近づけると、ラ・デファンス、コンクリートのビルが林立する。パリ市内にはこのような建物を造ることは許されていないので、こちらに纏めて開発した。
でも、凱旋門からさほど離れているわけではない。4〜5キロ程度である。メトロもRERも走っている。10数年前、こちらの国際会議場の大きなホールに、シャルル・アズナブールを聴きに行ったことがある。黒いシャツに黒いズボンで出てきた小柄なアズナブール、凄かった。私が知っている歌はあまりなかったが、満員の聴衆、湧いていた。年取った人が多かったな。
それはともあれ、ラ・デファンス、やはり、”パリの歴史軸”の延長線上に造られている。
この写真の道路の突きあたり、四角い建物がある。グランダルシュと呼ばれるビルである。この建物、新凱旋門とも呼ばれる。ルーヴルから、カルーゼル凱旋門を通り、チュイルリー庭園、オベリスクのコンコルド広場、シャンゼリゼを通り、エトワールの凱旋門、と延びてきた”パリの歴史軸”、その延長線上にラ・デファンスの新凱旋門をつけ加えた。

しかし、パリの町、基本的にはこのようなもの。
せいぜい10階建て程度の石造りの建物が立ち並ぶ。4〜5階のアパルトマンも多い。屋根裏部屋もある。屋根のすぐ下の所に窓がある建物、屋根裏部屋を持つそうだ。この正面の建物も、よく見ると、そう。

上のテラスへの途中に、彫刻などが展示されている所がある。そこには、このようなものもある。
ブロンズ製の棕櫚の葉の装飾である。無名戦士へのオマージュを表している、という。

テラスから下へ降りてくると、何やらやっている。参加している人は、老若男女さまざまな人がいるが、厳かな雰囲気がある。
ケピ帽、いわゆるド・ゴール帽を被った人もいれば、ベレー帽を被った人もいる。スカーフを巻いた人も、ごく何でもないような人もいる。一体これは何のセレモニーなのか、と思った。
この写真の右側下の方では、火が燃えている。
帰った後、凱旋門に入る時にもらった日本語のリーフレットを読んだ。そこには、こう書いてある。
<1923年11月11日、陸相アンドレ・マジノによって追悼の火が点火され、以来、この火は絶えたことがありません。毎日18時30分に、900あるフランス在郷軍人会のうちのひとつによって点火され続けています>、と。確かに、6時半すぎであった。

国のために散った無名戦士の帰還のセレモニー、毎日夕刻、6時半に行なわれている、という。この日の担当は、何処の在郷軍人会の人たちなのかは、まったく知らない。
しかし、その時に見た皆さま方の雰囲気から察するに、都会地の人たちではない。ブルターニュかアルザスか、そのような辺境の地の人たちであったような気がする。