岩手あちこち(14) 大船渡。

今は、駅としては機能していないが、盛駅前には客待ちのタクシーがいる。
「大船渡の駅へ」、と言って乗りこむと、運転手、「何もありませんよ」、と応える。「そうですか。行ってください」、と私。盛から大船渡までは4〜5キロだそうだ。「あの辺りはすっかりやられました」、と運転者は話す。


暫らく走ると、窓外、こういう光景が現れる。

流されている。

ガレキが連なっている所もある。
先の方、煙が出ている煙突は、太平洋セメントの工場、と運転手は語る。

窓の外、こういう建物が現れる。

こういうものも。
鉄筋コンクリートの頑丈な建物だけが残った。骨組だけを残し。

暫らく進むとタクシーは止まる。「大船渡駅です」、と運転手言う。
まっ平らな所である。「ここに大船渡の駅があったのです。それが津波ですっかり流されました」、と続ける。ウーン、そうか、という思い。なお、写真正面の建物は、傷がないので、最近建てられたものであろう。

運転手も下りてきて、この写真の薄っすらと雪が残る所を指差し、「ここに私どもの会社の本社があったのです」、と言う。そうか、駅のまん前の角地にこのタクシー会社の本社はあったのか。それが流された。今は、盛に仮の営業所を置いている、と言う。

ここからすぐ先の大船渡港にかけての一角、大船渡の中心部であった。三陸沿岸に多くの店舗を展開するスーパーのMAIYA、大船渡プラザホテル、岩手銀行大船渡支店、JA大船渡、その他、この地域を支える施設が立ち並んでいたそうだ。三陸各地の漁村とは異なり、いわばビジネス街とも言える一角。それが流された。所々、鉄筋コンクリートの枠組みだけを残し。
私は、暫らく歩くつもり。港の方へも行くつもりである。
「お帰りの時には、ここへ電話ください。すぐに迎えに来ますので」、と運転手は領収書を渡し、引き返していった。

少し目を転じれば、こういう光景。
3.11後、被災地に何度も足を踏み入れている池澤夏樹は、その著『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』(2011年、中央公論新社刊)の「まえがき、あるいは死者たち」の中でこう書いている。少し長くなるが、その一部を引く。
<逝った者にとっても残された者にとっても突然のことだった。彼らの誰一人としてその日の午後があんなことになるとは思っていなかった。・・・・・あれから何か月もたって、復興の遅滞と放射能の恐怖がもっぱらの話題になり、最初の日々の衝撃はメディアの表面から遠のいたように見えるが、ぼくは死者たちと行方不明者のことをまだ遠いものとできない。津波の映像を何度となく見直し、最初に見た時の衝撃を辿り直す。・・・・・>、と記している。
さらに、<薄れさせてはいけないと繰り返し記憶に刷り込む。・・・・・死は祓えない。祓おうとすべきでない>、とも。
この書の刊行は昨年9月である。しかし、今も、池澤の言、変わらない、と私は考える。

スーパーMAIYA、マイヤもこの状態。外側だけを残して流された。
しかし、スーパーMAIYA、さすが三陸の雄だ。今、津波で流されたあちこちの店舗を復活させている、という。つい先日まで知らなかったが、スーパーマイヤ、頑張れって声をかけたくなる。

こういう所も。

3階まで津波に襲われたことがよく解かる。

ここはスポーツ用品店だったようだ。

この建物は、鉄骨だけが残った。

人はいない。ウーン、と思うのみ。

大船渡の今。
     雲はみんなむしられて
     青ぞらは巨きな網の目になった
     それが底びかりする鑛物板だ
宮沢賢治 「休息」から3行。