岩手あちこち(16) 陸前高田。

海沿いの道をバスは走る。陸前高田を経て気仙沼へ。

ここはまだ大船渡市かもしれない。
岬というか小さな半島というか、両側から向き合っているこういう光景、典型的な三陸の海。

リアス海岸、小さな入江がつながり、すぐ山が迫る。
手前の高台にある家は、被害を免れている。しかし、右手奥に見える入江の家々は被災している。

突然、この立看板が。「日本百景高田松原」4キロ先、という。

3.11、三陸沿岸ことごとく大津波に襲われた。中でも、陸前高田の被害は酷かった。市役所も流された。
今、仮設の市役所が高台に建っている。左のプレハブの2階建て。その前には、やはり仮設のATMもある。ボディーに「ファイト!!いわて」と書いたトラックが目についた。

その内、こういう光景が現れる。一望、何もない。

陸前高田市の死者は1554人、行方不明者は298人、合計1852人(昨年12月9日発表の岩手県災害対策本部数値)に上る。4万人前後の人口を持つ釜石や大船渡での死者、不明者をはるかに上回る。
それまでの陸前高田の人口は23300人。その中の1852人、実に、陸前高田市民の7.95%にあたる。地方の町、それぞれの人、100人やそこらの顔見知りがいるだろう。ある時を境に、その中の8人の姿が消えたこと。ひと時に。津波、そういうもの、と言えるようだ。

大きなコンクリートの建物以外、何もない。もっとも、そのコンクリートの建物も、残っているのは骨組みのみ。ここで、どれだけの人が助かったのか。
そう言えば、一昨日触れた池澤夏樹の『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』の中に、こういう話がある。
池澤夏樹が、『ケセン語大辞典』の創造者・山浦玄嗣を訪ねる。山浦玄嗣の本業は医者。大船渡の盛(私が、朝早く着いた盛)で開業している。山浦の医院も床上まで浸水したが、翌日から多くの患者を診たそうだ。池澤がその山浦から聞いた話。
<昔からよく知っている老いた患者がやってきた。診察しながら「生きていてよかったな」と言うと、「だけど、俺より立派な人がたくさん死んだ」、と言って泣く。・・・・・それでも、たくさんの人の罹災の話を聞いたけれども、「なんで俺がこんな目に遭わなければならないのか?」という恨みの言葉にはついに出会わなかった。日本人は、東北人は、気仙人は、あっぱれであると山浦さんは言う>、というもの。
僅かな触れあいであるが、そういう感じを受ける、私も。
なお、”気仙人”は、岩手県南東部の三陸沿岸、大船渡と陸前高田地方の人を指す。気仙沼とは別。”ケセン語”は、気仙地方の言葉。

こういう光景が続く。ある日突然、人口の8%の人がいなくなった。そのこと、よく解かる。
今日の朝日に、陸前高田の元教員が、あの日に撮った写真を周囲に見せ始めた、という記事が載っている。嫌な思い出がよみがえるから誰にも見せずにいたそうだが、記憶の風化が心配になって、と。「生かされた者が語り継がねえと。次に津波が来た時・・・・」、とも語っている。そうだよ、そう。

オッという感じであった。一本松じゃないか。あの一本松が、ガレキの向こうに、突然現れた。

陸前高田の松林、2キロにわたり7万本の松が生えていたそうだ。防潮林の役目を兼ねて。
それが、ただ1本を残し、他はすべて流された。不思議なことだ。ただ1本、ということが。
奇跡の一本松であり、ど根性松とも呼ばれる。陸前高田の希望の松とも言われた。何とかこの松を守ろうとさまざまな試みがなされた。しかし、再生は不能となった。塩水に浸かりすぎたのが原因らしい。
いずれは倒れるのであろう。しかし、今は立っている。希望だ。でも。

     こんなにみんなにみまもられながら
     おまへはまだここでくるしまなければならないか
     ・・・・・・・・・・
     おまへはじぶんにさだめられたみちを
     ひとりさびしく往かうとするか
     ・・・・・・・・・・
     毒草や螢光菌のくらい野原をただよふとき
     おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
     ・・・・・・・・・・
宮沢賢治 「無聲慟哭」より。

暫らくの間、一本松は見えていた。何も無くなった野っ原の中に。バスが曲がる度に近くなり、また、遠くなり、と。

一本松が見えなくなり暫くすると、窓外、このような景色となる。
霧か霞みがたなびく向こうの半島とこちらの岬に抱かれた入江、穏やかである。何より、美しい。

でも、暫らく進むと、このような光景が。海には、防波堤も見える。静かな入江の漁村であったのであろう。
陸前高田、大津波に襲われた三陸沿岸の典型例を幾つも担っている。