三陸沿岸紀行(16) 大船渡。
大船渡は、今、どうなっているであろうか。
3年半前、大震災の翌年1月、盛から乗ったタクシーの運転手に「大船渡へ、JRの大船渡駅へ」、と言った。運転手は「大船渡には何もありませんよ。JRの駅もありません」、と応えた。「そうですか、でも行ってください」、と応じた。
「JRの大船渡駅はここです」、と運転手が言ってとめたところには何もなかった。どういうことか唯一水道の蛇口ひとつを残して。JR大船渡駅、すべて流されていた。
駅ばかりではない。大船渡の町すべてが流されていた。
JR大船渡線は、今でも不通、復旧していない。代替処置として、JR大船渡線BRTというものが走っている。
ここから。
JR大船渡線BRTの大船渡駅。
囲いのみが建っている。
コイン・ロッカーもなければ自販機さえない。周りには人影もない。
小さなリュックをその中に置き、少し歩くこととする。リュックの中に入っている物は、スペアのデジカメと充電器ぐらい。無くなっても、どうってことはない。次の気仙沼で補充できるだろう。
駅の周りの光景は、このようなもの。
海の方、大船渡湾の方を見る。
コンクリートの構造物が見える。
この間を入る。
こういう看板がある。
目の前には、大船渡湾。
思い出す。3年半前にもこういう光景があったことを。
コンクリートの堤防が続く。
3年半前にはなかった。
あの日ここには、7.60m、8.60mの津波が襲っていた。
このあたり、3年半前には多くのカモメがいた。
作業は成されている。しかし、4年半が経って、この状態である。
どのような作業であろうか。
「危険予知活動表」というものがあった。
先は永い。
こういう狭い道を歩く。デカイ車が通りすぎる。
4年半も経っているのに。
長期戦だ。
この少し先を行けば、かってのJR大船渡駅である。
しかし、デカイ車がビュンビュン通りすぎる。このタンクローリーばかりじゃなく。
そっちの方へ行くことはやめる。
暑い。とても暑い。小さな駅舎に戻る。
間もなくバスが来るな、という頃、若い男の子が二人現われた。高校生である。訊けば、水産加工場の職場見学に行ってきた、とのこと。町は流されたが、そういう職場はあるんだ。来年春からは、その職場で働いていてくれればいいな、と思う。
そのすぐ後には、リュックを背負った年配の女性が二人来た。
訊けば、買い出しに来たとのこと。旧大船渡駅の向こうの方、何やら賑わっている模様。