文言(続き)。

ポツダム宣言受諾の最初のご聖断が下されたのは、8月10日の午前2時ごろまでかかった御前会議の場。陪席していた内閣書記官長の迫水久常、官邸に戻るや、すぐに「終戦の詔書」の草案づくりに入る。まだ日は昇っていなかった、という。
その後、14日の御前会議における第二回目のご聖断まで、最終的にできあがるまで、さまざまな人の意見が加えられている。迫水久常、たまたま訪ねてきた友人の意見まで聞いている。国家存亡の大事、ましてや天皇大権に関するもの、国家の最高機密のはずだ。いいのかな、とも思われるほど。
読売新聞社編『天皇の終戦』、このくだりでも、さまざまな人から聞いた話が出てくる。が、主は迫水久常の話。
<とりあえず、詔書草案の第一稿として、陛下のおことばを口語体に再現し、書くべきことと、書いてはならぬことを区別して、・・・・・>、と迫水はいう。
<絶対に書きいれるべきことは、まず第一に、陛下は忍びかたきことも忍ばなければならない、とおっしゃっている。それは・・・・・>、であり、
<詔書の中に絶対あってはならないものは何か。陛下は「わたしはどうなってもかまわない」とおっしゃっているが、・・・・・それを詔書にいれたらたいへんなことになる。終戦の原因が「陛下の不徳」にあったということになれば、陛下が戦争責任を負われることになるわけです、ポツダム宣言には、第十項に、・・・・・>、と語る。
迫水久常、憲法上の定めでは、責任内閣制(内閣がすべての責任を負う)のが建前、という考えに立っている。だから、その後続けて、<だから、陛下が戦争について、いささかの責任をも負うようなことは一切ふれないし、書かない、とわたしは決心したのです>、と話す。
これは後の話だが、<あのころ、海軍省軍務局次長をしていた高田利種少将に会ったら、あの詔書が出たとき、たぶん八月十五日当時、高松宮さまが、高田さんに、「詔書の中に、天皇が国民にわびることばはないね」、とおっしゃったそうです>、とも語っている。
たしかに、そうだ。昭和天皇の弟君である高松宮でさえそう言われるように、終戦の詔書には、国民に対する詫びの文言はない。陸海の将兵は勇戦奮闘し、役人たちも職務に励み、一億国民も奉公してくれた、という文言はあるが。
天皇の詫びは、天皇の戦争責任に繋がる、迫水久常、そう思い固めていたようだ。
迫水久常、内閣嘱託の名文で鳴らした男や、やはり内閣嘱託で一高時代のクラスメートの男にも、意見を聞いている。それはそれとして、当時、大東亜省次官であった田尻愛義の話には、驚く。
迫水久常とは気のおけない仲だったそうだが、偶然にブラッと迫水を訪ねた時、終戦の詔書の原案を見せられ、意見を求められたそうだ。あの当時、いかに気のおけない仲だとはいえ、こんなことまで話していたのか、ということが出てくる。
田尻愛義、まず、迫水の草案の「国体の護持」に文句をつける。「国体護持」をいう時期はとっくに過ぎているのではないか、と言って。美濃部達吉の天皇機関説も出てきたようだ。しかし。迫水は、「これはどうしても入れなければいかん。だめだ」、とつっぱねたそうだ。
<正直にいって、ぼくは迫水さんに、天皇は戦争の責任をとって退位なさることが望ましいし、皇室財産も国民に開放すべきだ、ともいったんです>、と田尻愛義は語っている。本当かな、終戦前のその時に、と思う。
田尻愛義の話は、まだ続く。
<もう一か所ぼくがタッチしたところがあるんです。それは迫水さんの詔書案には、東南アジアの国々に対する”終戦のあいさつ”が一言もなかったので、それを入れてもらったことです。・・・・・これには迫水さんも「そりゃ、全くその通りだ」ということで、>、というくだりがある。
私は初め、そうか、日本が石油はじめ資源確保のため侵攻、侵略していった国々に対する挨拶のことか、と思った。今でも東南アジアの国家元首が来て、宮中晩餐会などでよく出てくる、”先の大戦では、多大のご迷惑をおかけし・・・・・”という遺憾の意のことか、と思った。だが、違った。
”東南アジアの国々に対する挨拶”とは、大東亜共栄圏構想に協力した国々に対する挨拶であり、日本が迷惑をかけた国々に対するものではなかった。
終戦の詔書には、”朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス”、という文言が記されているのだから。
中国やアジアの国での勤務が長い外交官である田尻愛義にしても、東南アジアの国々、大東亜共栄圏構想に協力した国々という認識、ということになる。
再び、迫水久常の話。
<わたしは田尻君が帰ってから、最後の仕上げとして、漢学の川田瑞穂先生と安岡正篤先生を官邸にお呼びした。・・・・・わたしは、これは極秘事項だ、ということをお断りして詔書案を見せ、専門的な立場から加筆修正をお願いしたんです>、と語る。
ついに、安岡正篤が登場した。陽明学者の安岡正篤が。
戦後、日本の黒幕、フィクサーと呼ばれた人は、何人かいる。三浦義一、児玉誉士夫、四元義隆、田中清玄、といった人たちだ。しかし、安岡正篤は、これらの人たちとはひと味違う。しかし、安岡正篤こそ、フィクサー中のフィクサー。
他の人たちは、面白い男ではあるのだが、どこか影を持っている人たちばかり。何より、安岡正篤、学者である。日本の保守政治家で安岡正篤の教えを請うていない人は少ない。宰相の指南役でもあった。首相になり、安岡正篤の指南を受けなかったのは、叩きあげのブルドーザー・田中角栄ぐらいじゃないか。
迫水久常の原案、”朕ハ堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ”、の”朕ハ”の後に、”義命ノ存スル所”、という字句を安岡正篤は入れる。「戦争終結は、・・・・・大義であり、道義の至上命令、すなわち、義命のしからしむるところである」、との理由で。
ところが、その後の閣議で、”義命”が、まったく意味の異なる”時運”に変えられる。あとで迫水久常、安岡正篤からおしかりを受けたそうだ。
”五内為ニ裂ク”も安岡正篤の加筆。学者の言葉は、難しい。”胸がはりさけるばかりの思いである”、という意だそうだ。
終戦の詔書、最後の閣議前にも、手が入っている。最後まで、国体護持の一条件でのポツダム宣言受諾に反対していた、陸相・阿南惟幾の意を汲んだ、字句の変更も行なわれている。
「終戦の詔書」の文言、案外民主的に作られた、とも言えるかもしれない。