ギューちゃん(続きの続き)。

平面であれ立体であれ、ギューちゃん、何でもござれだ。
何しろ、基礎テクニックがしっかりしている。芸大入学前からデッサンの腕を磨いている。だから、入学後は、芸大の授業をバカにしているフシがある。
裸婦デッサンで、完成した裸婦の胸に短刀を突き立て、血の飛沫を描いた。芸大入学前からデッサンの指導を受けていた芸大の副手が飛んできて、短刀を消せ、と言う。しかし、ギューちゃん譲らず。当時の人気画家で、芸大教授に迎えられた指導教授・山口薫から、こうお叱りを受ける。「絵というものを、すこしあなたは簡単に考え過ぎている」、と。
自著『前衛の道』の中で、ギューちゃん、このように記している。初めっから、あいつは卒業させちゃいけない、と教授たちにレッテルを貼られていたのだろう。
大学など、どんなにできが悪くとも、教授の一存で卒業できるものである。たいていの大学、そうではないか。私も、箸にも棒にもかからぬできの悪い学生であったが、指導教授に恵まれた。少々アル中ぎみの先生であったが、たいへん立派な人格者であった。名を、安井俊雄先生という。本来、卒業できぬ私のことを教授会にかけてくれた。安井先生のおかげで、私は、卒業できた。今でも、安井先生のこと、時折り思い出す。
ギューちゃんは、私とは逆だったんだ。当時の日本画壇の巨匠・林武にも山口薫にも嫌われていた。卒業は、できなかった。しかしだ、日本の美術界にとっては、それが幸いした。ギューちゃん、前衛の道を突っ走り、21世紀のミケランジェロになったんだから。
何でもござれのギューちゃん、とりわけバイクが好きだ。さまざまなバイクの立体作品を創っている。
「モーターサイクル・ブルックリン」、「ポケモン・モーターサイクル」、「空海モーターサイクル」、9.11の後には、「女と兎と蛙を従えたストロベリーアイスクリームをなめる髑髏バイク(テロリストアタック直後のニューヨーク)」と名づけた美しくも凄まじい作品も創っている。
豊田市美術館の展覧会の時にも、「地上最大のバイク」の他、「カマキリとレディー・オートバイ」、「兎と蛙の乗ったセンテノールオートバイ」、「ドクロ・オートバイ」などを出展している。

こういうバイク。

こういうカラフルなバイクも。
これは、「兎と蛙の乗ったセンテノールオートバイ」だったかもしれない。
さまざまなバイク作品、素材はいずれも、金属、カラーボード、プラスティック、カラーピグメント、布、紙などが使われている。ミックスドメディアだ。

ニューヨーク、ブルックリンのアトリエでの制作現場。図録から複写した。
あちこちに、「地上最大のバイク」の断片や、「ギリシャ神話ファンタジー」と格闘するギューちゃんの姿がある。
ギューちゃん、図録の中で、こう語っている。
「楽しくいかないとさぁ。だって自分が感動しないと、人を感動させられないんだから。そこがね、僕のひとつの結論なのよ。だから、感動しなくてもなんでも感動しちゃうのよ、癪だから」、と。そうだ。異議なし、だ。

展覧会場には何台かのモニターが置いてあり、ブルックリンのアトリエで制作をするギューちゃんの姿を流していた。
1932年生まれのギューちゃん、来年は、80歳になる。髪の毛は白くなってしまったが、モヒカン刈りは、健在だ。
表紙を含めて20ページ、というギャラリー山口のギューちゃんの小品展の薄いカタログを引き出したら、新聞の切り抜きがハラリと落ちた。2009年5月27日、朝日新聞、夕刊、と書き入れてある。2年前の切り抜きだ。筆者は、比較文化学者・四方田犬彦。タイトルは、「ギューちゃんは永遠である」。
四方田犬彦、24年前、何でもニューヨークへ留学の下見に行った時、ギューちゃんのアトリエを訪ねたそうだ。初対面のギューちゃん、四方田に、こう言ったそうだ。
「俺は毎日こうやってキャンバスに絵を描いているのだ。認められるかどうかは問題じゃない。描いているかぎり、俺は一瞬一瞬、勝っているんだと自分にいいきかせているんだ。もし描くのをやめちゃったら、俺はただの東洋人のジジイにすぎないじゃないか」、と。
「金なんてなくったって何とかなる。インスタントラーメンがひとつ30セントだったら、毎日食ってひと月30ドルでやっていけるじゃないか」、とも。そのあと、四方田犬彦、こう書いている。
<戦後、日本人でアメリカに渡った美術家は多い。・・・・・この中で篠原の存在だけが、わたしには際立ってアクチュアルに思えた。彼は日々を画家として真剣に生きていた。24時間、芸術のことしか考えていなかった>、と書き、最終行にこう書く。
<ギューちゃんは永遠なのである>、と。
おそらく、四方田の記事を目にした私、嬉しさのあまり、切り抜いたのだろう。

モニターには、こういう映像も出てきた。バイクを創っている時のギューちゃんだ。
若いころのギューちゃん、筋肉モリモリ、肉体派で鳴らした。ケンカも強い。芸術家に似合わぬマッチョな男であった。しかし、やはり、老いは忍び寄ってくる。今年の初め、岡本太郎100歳記念の催しでは、久しぶりにボクシングペインティングも披露したようだが、悲しいかな、筋肉は落ちている。
それどころか、死んでもおかしくない年になってきた。ギューちゃんの周辺の絵描き、次々と死んでいった。
世界に認められた、三木富雄、工藤哲己、高松次郎、彼らは、とうの昔に死んじゃった。ネオダダの仲間、荒川修作も去年死んだ。今年3月には、吉村益信も死んだ。今、残っているのは、日本で飄々と生きている赤瀬川原平ぐらいだ。
肉体派で鳴らしたギューちゃんも、と私は秘かに案じている。


しかし、ギューちゃん、このような作品を創っている内は、大丈夫か。
迫力があるばかりでなく、破壊力もあるものな。


ニューヨーク、ブルックリンのギューちゃんアトリエ。
アクリル絵の具の入ったブリキ缶が林立している。ここでギューちゃん、インスタントラーメンを食っているのだろう。
このギューちゃんに対し、おそらく、日本政府は、勲章も褒章も授与していないであろう。私が知るギューちゃんの唯一の栄誉は、毎日芸術賞を授けたことだけだ。
2007年、毎日新聞社は、ギューちゃんへ第48回毎日芸術賞を与えた。中村吉右衛門や司修と同時授賞。はからずも、私が、ギャラリー山口で、2度目の絵を描いてもらった前日が、その授賞式だった、とギューちゃん語っていた。毎日新聞のその日の記事が壁に貼ってあり、ギューちゃんも嬉しそうだった。
それはともあれ、毎日新聞、三大紙と言われながら、朝日、読売に大きく水をあけられている。日経にも抜かれている。ブロック紙の中日にも危ないのじゃないか。しかしだ、毎日、やはり、クウォリティーペーパーだ。ギューちゃんを認めたんだから。朝日や読売ができないことをやった。毎日、いいぞ。凄い。拍手だ。

実は、私、ギューちゃんに描いてもらった、「バイクに乗る私」の作品の他に、もう1点ギューちゃんの作品を持っている。これだ。
2年ほど前、古い仲間のOから貰ったものだ。Oと話していた時、ギューちゃんのことに話がいった。O、以前に求めたギューちゃんの版画があるので、それをやる、という。小さいものだと思っていた。貰ったら、思いの外、大きかった。56センチ×38センチある。
申しわけない。お返しに、その何年か前、バンコクの古道具屋で求めた、タイだかラオスだかの古い人形芝居の頭を進呈した。何点か求めたものの1点を。古いものだが、ボロボロになっている頭だ。
それはともあれ、この作品、タイトルは、「SCORPIO(蠍座)」だ。私が貰ったのは、6/100。しかし、その技法が解からない。表面を睨んだが、リトグラフのようでもあるが、シルクスクリーンのようでもある。
つい今しがた、Oに電話した。2年ほど前に貰ったギューちゃんの版画、技法は何だ、と。Oもよくは憶えていない。記録があるかどうか、調べて電話する、と。30分ほど後、Oから電話がきた。調べたが、記録は出てこない。しかし、おそらく、シルクだと思う、と話す。
O、こう語る。ギューちゃん、ずっとアメリカにいる。アメリカの版画、シルクが主流だ。ウォーホルしかり、誰もかも。アメリカのシルク、100色、100版なんてこともある。おそらく、ギューちゃんの版画もシルクスクリーンに違いない、と。
O、木版画の名手。版画のことには詳しい。おそらく、そうであろう。
Oから貰ったギューちゃんの版画、「SCORPIO(蠍座)」、ギューちゃんらしい構成、色づかい、今、じっと眺めている。