名残りの桜。

夕刻、近くを散歩する。ゆっくりと歩き、ドトールあたりでコーヒーを飲みながら文庫本を読む。時には、居酒屋に入り、少し飲む。
早い時間の居酒屋、客はあまりいない。そういう時には、カウンターの端で熱燗を飲みながら文庫本を読むこともある。少し時が経ち、客が立てこんでくれば、席をたち帰る。客単価の安いジイさんひとり、営業妨害にならぬよう。
典型的なジイさん、世捨て人、隠棲者の行状だ。今日も、フラリと歩いていた。

小学校の前の桜木に、五弁、一重の桜花が、固まって残っているところがあった。周りを桜蘂に囲まれて。
残り花、名残りの桜にしては、少し多い。ホウ、と思う。

本来の残り花、桜蘂の間に間に花びらがひとつかふたつが残る、こういう状態をいうのじゃなかろうか。

中には、五弁の内、3〜4片は失われ、かろうじて1〜2片が残っている枝もある。
”花は盛りの時に、月は満月の時に、そんな時ばかりを見るものだろうか?”、と『徒然草』の作者はいう。
”今にも咲こうとしているころの桜の梢や、花が散ってわびしげになったころこそが、見どころが多い”、とも言っている。
そうは言っても、残りの花が姿をとどめず、花弁のひとひらかふたひらのみ、というのも侘びしさがすぎよう。
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”どのようなことでも、盛りの時ではなく、始めと終わりの時に味がある”、と兼好法師がいう”終わりの時の味”とは、せめて、このような状態のものではなかろうか。